古典文学読書会のブログ

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『千夜一夜物語』バートン版 第2巻 大場正史訳の読書会議事録

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千夜一夜物語』バートン版第2巻の読書会の議事録を公開する。

 

・せむしの男の物語の床屋について。迷惑な人物ではあるが、知恵者であることも否めない不思議な登場人物。ヨーロッパの昔話に出てくる愚者を装った道家(クラウン)に通じるものがある。

 

・聖なる双子の近親愛のモチーフは他の物語/神話でも確認できる。今回はオマル王の娘、ヌザート・アルザマンと、息子ザウ・アル・マカンの関係に見て取れる。

 

貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)というのが千夜一夜物語で繰り返されるモチーフ。貴種流離譚とは、説話類型の一つ。貴い家柄の英雄が本郷を離れて流浪し、苦難を動物や女性の助けなどで克服してゆく話。古事記大国主命(おおくにぬしのみこと)、源氏物語光源氏の須磨・明石などが例として挙げられる。(広辞苑)

 

・魔女ザト・アル・ダワヒはすごくキャラが立っている。この登場人物の原型は何なのだろうか?ハディースによると、初期のイスラームでは女が族長というケースもあったらしい。イスラームでは近代以降の方が男女差別が激しい地域が存在するだろう。

 

・2つの教訓話の比較をしたら面白いかもしれない。一つは、ヌザート・アルザマンが兄弟関係にあることを知らずに結婚したシャルルカンに対してした教訓話。もう一つは、ザト・アル・ダワヒが手下の娘たちを使ってオマル王にした教訓話。前者が成功へ道標となる教訓話。後者が破滅へと至るの教訓話と介することはできるだろうか?

 

千夜一夜物語は起源を辿ると、ペルシャの昔話やインドの恋物語に至ることもらしい。

 

・恋愛について。

当時の中東地域に自由恋愛の概念があったのかは疑わしいのだが、その割には『ヌルアルディンアリと乙女アニス・アル・ジャリスの物語』や『恋に狂った奴ガーニム・ビン・アイユブの物語』など西洋的な恋愛を匂わせる作品が多く登場した。ちなみに、古代イランでは恋愛の概念はあったらしい。例えば、悲劇的な恋愛を描いた『ホスローとシーリーン』などがあげられる。ちなみに、イスラーム圏の映画では恋愛が描かれることは少ない。対して、インド映画は恋愛がテーマになることが多い。カーストの制約によって果たされたかった恋物語が最終的に親の決めた人と結婚することによって終わるいうストーリー展開がよく見受けられるようだ。

 

また、歴史的に、結婚をした後に恋愛が始まるという文化圏もあるようだ。現代には当てはまらないかもしれないが、近代初期のフランスなどでその傾向を見て取れる。結婚をして親元を離れたことで自由に恋愛ができるということもあるし、キリスト教的な束縛という文脈もあるようだ。また、中国史の中にも恋愛は結婚後に始まるという文化があるようで、『恋の中国文明史』という本もある。

 

ちなみに、日本は江戸時代は恋愛については大変大らかにであった。一夫一妻制が定着したのは明治維新以降のようだ。

 

千夜一夜の中に見るベドウィン差別について。ベドウィンとはアラビア半島北アフリカに住むアラブ系遊牧民族だ。バートン版におけるバダウィ人がベドウィンである。しばしば粗野で野蛮な登場人物として表象されている。ザウ・アル・マカンの双子の妹ヌザート・アルザマンを騙してさらったのもバダウィ人、つまりベドウィンである。

 

 

・やっぱり読みにくい千夜一夜物語

千夜一夜物語は近代以前の物語である。色々な面白い話が続いていくが、近代以降の文学のように、個人の内面と社会との軋轢などが描かれるわけではない。坂口安吾的に言えば、「文学のふるさと」の一つの形であり、文学の原型の一つを提示していると思うのだが、やはり読みにくかった、という感想があった。また、最終的には楽しめるようになったが、感想を述べるのが容易ではない、という意見もあった。対して、自然と物語に入っていけて楽しめたという感想もあった。

 

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The Dictionary of Lost Words, Pip Williams (著)

 

洋書マラソン 五冊目

 

読書期間は2023年9月から12月。

 

432ページ。キンドルで読了。

 

オックスフォード英語辞典の初版の作成過程を追った歴史小説である。舞台は19世紀終盤から20世紀初頭のイギリス。主人公は辞書編集者の娘であり、名前はエズメという。

 

最初に英語辞典のプランができたのは1857年のことだ。著名な学者が集まって、新しい英語辞典を作ることがきまる。しかし、計画は難航し途中で頓挫してしまう。1879年、プロジェクトを続けるべく、主人公の父の友人で、スコットランド出身の教師、ムリー博士がオックスフォード英語辞典(以下、OED)の編集長に選ばれる。オックスフォードの文書室で、辞書を作成が始まった。この英語辞典の前には、1755年のサミュエル・ジョンソンによる英語辞典があった。

 

結局、OED1928年に完成する。最初に辞書作成案が提起されてから71年後の完成である。

 

その間に1914年から1918年の第1次世界対戦を跨いでいる。

 

主人公エズメは小さい頃から、OED作成の文書室を遊び場として育つ。彼女の趣味は言葉とその定義や用例が書かれている文書を集めることである。英語辞典に掲載されていない言葉を彼女は集めている。

 

辞書を作成するという行為は、言葉の定義を使用例から考えて、導き出す行為である。多くの場合は書かれた文書(出発物)が用例として用いられ、それをベースに言葉の意味が決まってくる。例えば、ジョン・ミルトンの書いた文学作品で、「かくかくしかじか」という単語が使用されているというように。

 

基本的に男性が書いた出版物を用例にして、男性の辞書編集員が話し合い、英単語の定義が決まる。女性は編集アシスタント(主人公のエズメのように)という形や、用例の提供者という形でプロジェクトに参加はしているが、プロジェクトの中心はあくまで男性である。ゆえに、英語辞典の作成は男性的な「感性」と「経験」によって作られている。

 

 

エズメは英語辞典には、採用されていないが、女性や労働者が日常的に使っている言葉を集めて、失われた言葉たちの辞書として密かに、言葉を収集していく。

 

例えば、Bondmaid(女奴隷)という言葉がある。

 

当時のイギリスの英語辞典には掲載されていないが、日常的に使われていた言葉である。

 

Bondmaid(女奴隷)という言葉は辞書にのっていない。辞書にのっていないということは世界に存在していないも同じ。

 

世界に存在していないということ、どんな差別的な状況でもそれを世界に対して知らせる術がないということだ。

 

これは性差別に限らずに、差別一般、もしくは抑圧的な状況に追いやられている方の苦境一般に言えることであると思うが、その状況を表現する言語がないことが差別を助長させている。

 

コミュニケーション手段の構造的な剥奪という暴力に女性が埋め込まれてしまっている。

 

言葉を持つことは抑圧に対抗する術になる。

 

しかし、言葉を持つことが良い面だけとは限らないのも事実ではある。人間は言葉によって囚われることがあるのも事実だ。子供だから、かくかくしかじかであるべき。大人だからかくかくしかじかであるべきなど。言葉にとらわれることで、正直な感性を表現できないないで苦しむケースもある。

 

例えば、小説の中に登場するリジーはエズメの家で働くBondmaidである。小説の最後で、リジーはエズメの家で働いたことは、幸福な日々であったと語る。このあたりは小説を読まないと伝わりにくいことであるが、誤解を恐れずに言えば、言葉の定義とその語感を超えた広がりが「現実体験」にあるというのも事実であろう。Bondmaid=不幸ということでもないのだ。ちなみにリジーは当時、イギリスをおきていた女性の参政権を求める運動にも控えめだった。このあたりも考えさせられる。

 

しかしながら、言葉によって望まない社会的な差別や抑圧的な現状を打開したり、改善したりする可能性が生み出せる。少なくとも現状打破のきっかけや可能性を作り出すことができる。

 

この小説は、差別的な状況を表現する単語が存在しないという状況を問題とした。

 

そんな言葉の不在こそ社会的な正義にもとると思う。文学の力はそんな言葉の空白を埋めることにあると思わせてくれる作品だった。

 

 

『千夜一夜物語』バートン版 第1巻 大場正史訳の読書会議事録

 

千夜一夜物語』バートン版 第1巻の読書会での議論の一部を要約した。

 

・近代以前にできた作品

この物語は近代以前のもの。個人の内面世界を描くことはしない。個人を書くのではなく、話がどんどんどんどん展開してく。落語などの芸の世界に通じるものがある。現代風に言えば、『千夜一夜物語』はラップ。

 

そもそも近代小説の枠組みができたのはゲーテ(1749-1832)の『若きウェルテルの悩み』(1774)以降ではないだろうか。

 

ゲーテの『ファウスト』からは近代的な部分と前近代的な部分の両方が読み取れる。

 

・翻訳のもつ問題について

翻訳者バートンという人物の色が色濃くでた翻訳であると考えられる(『名誉で読む世界史120』山川出版や『ハリウッド100年のアラブ』村上祐由見子、朝日新聞社などを参照)。

 

バートンは近代ヨーロッパを席巻していた「個人主義」「理性」「キリスト教」に反感を持っていただろう。

 

バートン版の序文を引用する。

 

「しかし、仕事を始めるか始めないうちに、〈君子〉という、あの、あらゆる不浄にみちみちた白塗りの墓がわたしたちに反対して立ち上がった。(注釈によると、この白塗りの墓とは、マタイ伝から出た言葉で、偽善者に意味に用いれられるようだ。)〈礼節〉なるものが黄色い、やかましい声を立てて、わたしたちをののしった。そのため、腰の弱い仲間は落伍していった。けれども、この種の機関はかつても必要であったし、今日もなお、必要とされているのである。

 

理性によって本能をおおいかくしていない、アフリカ、アメリカ、オーストラリアの奥地のあらゆる野蛮な種族のあいだでは、いわゆる〈一人前の男にする〉儀式が行われている、、、、。」

千夜一夜物語、バートン版、大場正史訳、p25-6』

 

と、ある。

 

インドや中東を放浪し、アナログの実体験をベースに思想形成をしてきたバートンからしたら西洋近代は抽象的で偽善的な世界と見えても不思議はない。

 

バートンは

キリスト教」「理性」「個人主義」をベースとした近代社会を、偽善的なものとして捉えていただろう。

 

対して、殺人やセックスを剥き出しの作品を西洋文明に投げつけたのではないだろうか。

 

坂口安吾の文学にみられるような『生の世界』への希求という問題意識をバートンは持っていたのではないだろうか。

 

 

バートンは大英帝国のコンロールが及ばない辺境の領事を転々した。本国の大英帝国には思う所も多かったようだ。

 

ちなみに、

『名著で読む世界史120』のp137によると、バートンらの翻訳は原典にはない官能的な表現を意図的に追加するなどの問題点が指摘されているようだ。同著によると、オリエンタリズムによって脚色された翻訳は、「好色にして残虐」という偏った中東観の源泉ともなり、いまだにその影響は続いている、とある。

 

参加者からは、バートンはビクトリア朝で支配的であった価値観に批判的であったのにもかかわらず、本文の注を見ると、バートン自身への東洋への偏見が露呈しており、バートン自身もビクトリア朝的な価値観からは自由ではなかった、という鋭い意見も出た。

 

今回『千夜一夜物語』を読む際の特有の難しさがここにあると感じた。古典作品に敬意をもって読むことは前提として大事な構えである。翻訳批判に注力しすぎずに、古典を古典として読むことは大事な構えである。しかし、こと『千夜一夜物語』のしかも最も人口に膾炙していると言われるバートン版の翻訳を読むをことは、半ばバートンに味付けされた作品を読むことにならざるえない。もっと言えば、フランス人の東洋学者のガランが翻訳にした際にも、有名なアラジンやアリババの話は、オリジナルの写本がに不明であり(現在でも不明)、それらは後から付け加えられた物語だと言われている。

 

テキストを尊重して、極力当時の社会的文脈にも配慮しながら読むのが、読書の定石である。しかし『千夜一夜物語』に関しては、訳者の意図や、オリジナルにはなかった物語の挿入などを考えながら読まざる得ない側面が多少なりとも出てきてしまう。今までこの会で扱った古典とは少し違った事情である。

 

 

 

・殺人が頻発することについて

物語としての誇張は考えられるにしても、当時は死というものが近くにあったのであろう。死後の救いを求めることは、当時はいわば普通の感覚であっただろう。つまり現世の生に囚われていないとも言える。

近代社会に生きる読者としては、現実味のない面白いお話という捉え方に終始した。逆に言うと、現実として捉えるのが難しかった。

 

イスラームでは死後に永遠の世界がある。日本文化には「永遠」が存在しない。だから「わび」「さび」が存在するのではないだろうか。

 

・なぜ不具の人が出てくるのか?

トルコなどの遊牧民族では、片目が潰れていると王位継承権がなくなるらしい。対して、片目の人間に霊的な力が宿るという話もあるらしい。不具になるがゆえに人を惹きつける要素もあるのではないだろうか?『千夜一夜物語』の第1巻に出てくる片目の托鉢僧の話があがった。日本文化では、能の逆髪の例なども話題にあがった。

 

・誠実だと思った話

不倫関係あった黒人との不倫がバレた後に黒人が不具にされてしまう。しかし女はそれでも愛し続ける。この女は誠実だという感想があがった。

 

 

半年ほど前に

コーラン』から始めてここまで来てみると一つの文化世界が自分の中で立ち上がった感があり感慨深い。

 

ハディース『ムハンマドのことば』小杉泰(編・訳)の読書会議事録

 

先日行われたハディースの日本語訳、『ムハンマドのことば』小杉泰の

 

読書会の議事録の一部を共有したい。

 

イスラーム初期の宗教の政治利用についてどう考えるか?ムハンマドにはそこまでの政治的野心があったとは思えない。全てが政治的な動機からことが起こると考えるのは考えすぎかもしれないと思う。

コーランが書かれたのが政治的な動機があったようには思えない。

なぜイスラームがここまで広まったのか?そこがわからない。20億人の信者。世界史の謎。

 

 

p79の夜の旅の箇所に関して、預言者のランク付が順番によってなされているのではないか?アブラハムが一番最後に来ていて、一番偉い?

 

 

聖人伝というジャンルについて。プラトンソクラテス、弟子がブッダ、弟子がキリストを、色々な聖人伝の中でのハディースの特殊性とは?誰がいつ語ったことなのかが書かれているので歴史学的な手続きはわりかしはっきりとしている。コーランは神の言葉、ハディースムハンマドの言葉と棲み分けがはっきりとしている。

 

 

西洋主導の近代化は世界を開かれたものとして受けれていくプロセスだったのでは?天道説から地動説、大航海時代の世界の発見、さまざまな文化の発見。それに対してイスラームは世界を閉じたものとして認識しているのではないか?その点で、西洋主導の近代化とは全く別の世界観を提示している。懐疑主義的な西洋流の近代教育を受けた育った人間には相容れない部分もあるのでは?

 

 

翻訳した瞬間に自由にものが考えられなくなる。ローマ教皇、法王。法は仏教用語。皇は天皇天皇仏教用語に惹きつけられた概念になっている。

 

 

ムハンマドの言葉、79ページの夜の旅で礼拝の回数が1日5回になる過程が記されている。これは聖書の創世記の18章16節からのソドムのためのとりなしの話に似ている。

 

 

歴史が立ち上がる瞬間に立ち会った。教友が資料を書類化していくプロセスに立ち会う。伝承者の名前を逐一調べながら読んだ。

 

 

 

 

 

p555の天地創造の箇所の聖書との違いについて。光を作ったり、大地を作ったりした点は聖書と共通するが、その順番は聖書と違う。休日もキリスト教が日曜日、イスラームは金曜日。

 

 

p556の「人の誕生」において、アッラーが子宮に子供を担当する天使を任命するとある。人間の誕生に天使が介入するという点がイスラムの世界観において重要な点になるであろう。P303の注によると、子宮のつながりは、母親を通じる繋がりを意味し、血縁者とのつきあい、助け合う関係のベースを意味する。これはイスラームでは重要な社会的規範とされている。子宮(ラヒム)と慈悲(ラフマ)が同じ語根から発することを、子宮のつながりの重要性と結びつける考え方もある。

 

 

西洋キリスト教社会には個人主義がある。対して、イスラーム圏には個人主義が弱いのではないか。この点は相容れない価値観の対立点となりうる。ちなみに日本には明治維新では個人主義は浸透しなかったが、戦後、ある程度、個人主義が浸透した。

 

 

なぜ西洋近代社会で「個人」が誕生したのか?

イスラームから見た世界史』という本を書いたタミム・アンサーリーよると、イスラームでは個人が聖書を自由に解釈することを重視したプロテスタントによる宗教改革は起きようがなかった。その理由は、イスラームウンマイスラーム共同体をあり方を規定するものであり、個人による聖典の自由な解釈は、集団を重視するイスラームの教義の根本に反するからである。

また、西洋で宗教改革が起きた背景には、カトリック教会という組織の腐敗に対する人々の反発があったが、イスラームにおいてはカトリック教会のような宗教組織はそもそも存在しなかった。

 

これに対して、「個人」が西洋で誕生した理由は、ユダヤキリスト教イスラームの教義の違いというよりも、教義以外の歴史的な要因が大きいのではないか?という意見が出た。

具体的には、中世西洋における農業技術の進歩、十字軍、ペストの流行の歴史的要因が大きいのではないかという意見が出た。例えば、ペストの流行により、西洋で人口が激減すると、労働力不足が起きた。結果、当時の農奴(自由を制限された農民。土地に縛られ、移転の自由を持たない)が貨幣を支払うことで土地を自由に借地できるようになったこと、などの歴史的な要因の方が教義よりも、「個人」の誕生においては重要だったのではないか。

 

 

 

 

 

断食について。なぜ断食をするのか?

究極的にはアッラーが言っているから。色々な宗教で断食は推奨されている。自分のエゴに打ち勝つような霊的な実践と考えられているのではないだろうか。適度な断食は健康促進効果がある。

 

 

p458の責任のついて

ハディースによると、誰もが何かの保護者であり、自分が保護するものに対して責任をおっている。男性は家族の保護者であり、妻は夫の家と子供に対して保護者である。責任の概念が自立した個人を前提していない点は、西洋近代社会との相違、もしくは対立点となりうる。自立した個人の連帯を前提にした社会では、結果に対する責任は個人が負うことが前提され、個人の自立が推奨される。

対して、イスラームでは個人は集団の中に埋め込まれており、個人は他者に対して責任を持つとハディースにはある。前者の場合は結果は個人の責任に帰せられる社会であり、自由は尊重されるが、他人が見捨てられてしまうこともある。後者のイスラーム社会は他人を見捨てない社会であるが、自由は抑圧される。

 

 

 

 

p566の終末の兆候において、イエスキリストが再臨した際の記述が興味深い。イエスは、イスラームの人々のために戦い、十字架を壊し、豚を殺し、ジズヤ(人頭税)を廃止する。アッラーは彼の時代にすべての宗教をイスラームを除いて廃絶する。彼は偽の救世主を倒し、地上に40年暮らして、世を去る。

人頭税に関しては、福音書の出てくる、カエサルものはカエサルへという有名な記述の前段でも登場するので福音書の記述と関連がある可能性がある。

ちなみに、40という数字も頻出するであるが、これはムハンマドの召命が40歳の時であったことと関連しているのではないだろうか。

 

 

 

A Column of Fireを読む 洋書マラソンその4

 

洋書マラソン4冊目 

 

読書期間 2023/3/3-2023/8/2 907ページ

 

16世紀後半のプロテスタントの隆盛を主にイギリスとフランスを舞台に描いた歴史小説

 

ケンフォレットのキングスブリッジシリーズの第三作目。

 

歴史の教科書ではサンバルテルミの虐殺でたくさんのユグノーが死んだということは知ることができるが、当時の、プロテスタントカトリックの心の動きまでを想像し、気持ちを重ねることは難しい。

 

歴史小説の良い点はそれぞれの登場人物に感情移入しながら読み進めることができることだ。歴史を疑似体験できる。

 

例えば、当時は、プロテスタントというだけで変な言いがかりをつけられて、裁判を起こされ、必ず負けてしまうというような異常なことが起きていたらしい(時代と国に少し違うとカトリックが被害者の立場にあったケースもある)。それは商売を営む上で、プロテスタントというだけでとても不利になってしまうことを意味する。商取引関連の裁判でプロテスタントが必然的に負けしまうからだ。

 

そのような日常的にあった当時の宗教差別、迫害を知る手立てを提供してくれるイギリスの歴史小説

 

本当に不遜な言葉になってしまうのだが、殉教していった人たちの熱量は異常だ。火炙りの系によりその命が終わり時に、主への祈りを絶え間なく続けるである。

 

巨匠とマルガリータ 水野忠夫訳 岩波文庫上下巻 の要約と感想

※上が岩波上巻、下が下巻

 

 

 

2つの時間が交互に行き来する物語。

 

 

1930年代スターリン政権下のソ連を舞台とした"巨匠"という作家とそのパートナーのマルガリータの物語。並行して展開するもう一つの物語、2000年前のヨシュアとピラトゥス総督の話が交互に展開する。善と悪、現実と幻想、現在と過去が入り乱れる。

 

一貫したモチーフは罪と救済ではないだろうか。

 

罪の中でも『臆病』という罪が特に争点なる。

 

巨匠は自身の小説を発表するがイエス・キリストを讃美していると批判され表現が怖くなってしまったのか、そこで文壇の道を諦めて小説を燃やしてしまう。

 

他方で、ピラトゥス総督も本当はヨシュアの命を助けたかったのだけど、それをしてしまったら自分の立場が危うくなると思い、ヨシュアの命を助ける勇気がなかった。結果、処刑を認めてしまう。

 

巨匠もピラトゥスも共に、臆病さという罪のために大切なものを失ってしまう。

 

2つの時代の中で現在ではヴォランド、過去ではアフラニウスという名前で悪魔が現れる。

 

これは私の想像になってしまうが、この小説における悪魔は

もしかしたら臆病さが生み出したものではないだろうか?

 

上巻ハイライトの一つ、悪魔による黒魔術ショーでは悪魔の能力により色々な超常現象が起きる。まさにスターリン政権下おこる権力者による暴力を揶揄しているようだ。

 

悪魔をスターリンの臆病さの賜物と考えると合点がいかないか?

 

臆病だからこそ、過剰に粛清をしてしまう人間の弱さの表象なのでは?

 

 

過去の話で

ピラトゥス総督は表向きは非キリスト教徒という立場である以上、悪魔にダイレクトにユダを殺してくれとは言えない。ユダが殺されるてユダヤ大祭司カヤファの自宅にユダを買収した金が投げ込まれたら社会不安になると言い訳をしてユダをあくまで守ってくれと頼む。そして悪魔は総督の意図をしっかりと読み取り、ユダを殺す。

 

こう考えると、悪魔は総督の臆病の象徴というか、臆病さという弱さを補う存在に思えてくる。

 

ピラトゥスと巨匠をパラレルに考えると、ヴォランドは巨匠の臆病さが生み出したものと考えることはできないだろうか?それは考えすぎか?

 

 

下巻のp345で、ピラトゥスに同情的なマルガリータに対して、『全てはうまく収まるだろう。この世はそのようにできているのだから』と悪魔は語る。

 

巨匠が救われたのだから、ピラトゥスも救われる。巨匠の臆病さを織り込み済みのプロットということだろう。臆病な巨匠が救われた。巨匠の反映のピラトゥス総督も救われた。悪魔の言った通り、全てはうまく収まった。

 

 

 

過去の話が巨匠ではなくヴォランドやマルガリータによっても語られることもあるのはなぜか?この本が未完であり、現在進行形で、色々な形で生成され続けていることを示しているのではないだろうか。

 

そう考えると、この小説は過去と現在を紡いだ罪と救済の物語であり、救済をえたところで物語は終わる。つまり、ピラトゥスの話も、『巨匠とマルガリータ』という小説そのもも最後に救済を得たところで終わる。

 

 

ちなみに、マルガリータの結婚した夫は完璧な人物らしい。若くてハンサムで親切で正直らしい。そんな完璧な人間よりも、完璧とは程遠い、強さも弱さも併せ持つ巨匠のことをマルガリータは好きになった。この点も重要だろうと思う。マルガリータは夫との暮らしに退屈こそしていたが、幸せではなかった。

 

 

最後に重要な論点として、

 

彼らは光ではなく、安らぎを得た。

 

その違いは何だろうか?

 

安らぎは死を介して得られる救済ということになると思うが、これは一面的に悪いものととしては書かれていないように思う。

 

むしろ著者は単純な善悪二元論的な図式を揶揄している節がある。

 

しかし死を介して辿りついた救済に可能性を広げると21世紀の日本に呑気に生きている私からしたら、当時のソ連社会が人々に課した絶望の深さを想像し愕然としてくる。当時のソ連の過酷な状況下を想像し、その絶望の深さを感じる。この小説にこめられた救済に深いアイロニーを感じる。

 

 

 

なぜ古典か?  その3 古典は変化しないので教養の土台、足場になる

なぜ古典を読むことが大事なのか?シリーズその3の投稿となる。 

 

教養は古典を中心に積み上げるべきだと思う。

 

なぜならコンテンツが変わらないから。

 

コンテンツが分からないものを教養の中心に据えるべきだと思う。

 

その意味で、中学高校や高校の教科書もあまり大きく変わることはない、とても大事な教養の核となりえる。

 

 

古典は内容が変わらないから、教養の足場になる。

 

現代は情報の量が爆発的に増えている時代だ。

 

ウィキペディアの情報は日々増殖している。

 

いろいろな国から日々日本に大量の情報が入ってくる。

 

情報の量が多く、かつ、その変化も激しい流動的な情報空間を生きている現代人にとって変わらない情報と言うのが学習において非常に大事になってくる。

 

例えば、SNSを使った最新のマーケティング手法を学んだとする。

 

その知識が10年後に通用する可能性は低いと思う。

 

しかし、マルクスやアダムスミスの古典から読んだ知識は10年後も古くならない可能性が高い。

 

変わらないから古典は価値がある。

 

変わらないから古典を中心に教養を磨くべきなのだ。

 

トルストイの作品の内容が変化する事はない。

 

ドストエフスキーの作品の内容自体が変化する事はない。

 

変わらない情報を足場にして教養のベースを作った上でその後に、流動的な情報空間に臨むべきである。

 

ある閉じた知識の体系をまずはマスターすることが大事である。

 

例えばサマーセットモームが選んだ世界の十大小説

の全てを読破することは少なくとも達成可能性がある目標だ。

 

しかし、日々更新される大量のニュース情報を全て読み切ることは達成不可能な目標である。

 

ある閉じた知識の体系をマスターし、後は、古典から得た教養をベースに類推を働かせることで現在の社会問題も考えることができると思う。

 

古典はなぜ大事か?

 

それは古典の内容は変わらないから、教養の土台たりえるからである。

 

その意味で古典の累積が体幹の強い知力を作り出すのではないだろうか。