古典文学読書会のブログ

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The Dictionary of Lost Words, Pip Williams (著)

 

洋書マラソン 五冊目

 

読書期間は2023年9月から12月。

 

432ページ。キンドルで読了。

 

オックスフォード英語辞典の初版の作成過程を追った歴史小説である。舞台は19世紀終盤から20世紀初頭のイギリス。主人公は辞書編集者の娘であり、名前はエズメという。

 

最初に英語辞典のプランができたのは1857年のことだ。著名な学者が集まって、新しい英語辞典を作ることがきまる。しかし、計画は難航し途中で頓挫してしまう。1879年、プロジェクトを続けるべく、主人公の父の友人で、スコットランド出身の教師、ムリー博士がオックスフォード英語辞典(以下、OED)の編集長に選ばれる。オックスフォードの文書室で、辞書を作成が始まった。この英語辞典の前には、1755年のサミュエル・ジョンソンによる英語辞典があった。

 

結局、OED1928年に完成する。最初に辞書作成案が提起されてから71年後の完成である。

 

その間に1914年から1918年の第1次世界対戦を跨いでいる。

 

主人公エズメは小さい頃から、OED作成の文書室を遊び場として育つ。彼女の趣味は言葉とその定義や用例が書かれている文書を集めることである。英語辞典に掲載されていない言葉を彼女は集めている。

 

辞書を作成するという行為は、言葉の定義を使用例から考えて、導き出す行為である。多くの場合は書かれた文書(出発物)が用例として用いられ、それをベースに言葉の意味が決まってくる。例えば、ジョン・ミルトンの書いた文学作品で、「かくかくしかじか」という単語が使用されているというように。

 

基本的に男性が書いた出版物を用例にして、男性の辞書編集員が話し合い、英単語の定義が決まる。女性は編集アシスタント(主人公のエズメのように)という形や、用例の提供者という形でプロジェクトに参加はしているが、プロジェクトの中心はあくまで男性である。ゆえに、英語辞典の作成は男性的な「感性」と「経験」によって作られている。

 

 

エズメは英語辞典には、採用されていないが、女性や労働者が日常的に使っている言葉を集めて、失われた言葉たちの辞書として密かに、言葉を収集していく。

 

例えば、Bondmaid(女奴隷)という言葉がある。

 

当時のイギリスの英語辞典には掲載されていないが、日常的に使われていた言葉である。

 

Bondmaid(女奴隷)という言葉は辞書にのっていない。辞書にのっていないということは世界に存在していないも同じ。

 

世界に存在していないということ、どんな差別的な状況でもそれを世界に対して知らせる術がないということだ。

 

これは性差別に限らずに、差別一般、もしくは抑圧的な状況に追いやられている方の苦境一般に言えることであると思うが、その状況を表現する言語がないことが差別を助長させている。

 

コミュニケーション手段の構造的な剥奪という暴力に女性が埋め込まれてしまっている。

 

言葉を持つことは抑圧に対抗する術になる。

 

しかし、言葉を持つことが良い面だけとは限らないのも事実ではある。人間は言葉によって囚われることがあるのも事実だ。子供だから、かくかくしかじかであるべき。大人だからかくかくしかじかであるべきなど。言葉にとらわれることで、正直な感性を表現できないないで苦しむケースもある。

 

例えば、小説の中に登場するリジーはエズメの家で働くBondmaidである。小説の最後で、リジーはエズメの家で働いたことは、幸福な日々であったと語る。このあたりは小説を読まないと伝わりにくいことであるが、誤解を恐れずに言えば、言葉の定義とその語感を超えた広がりが「現実体験」にあるというのも事実であろう。Bondmaid=不幸ということでもないのだ。ちなみにリジーは当時、イギリスをおきていた女性の参政権を求める運動にも控えめだった。このあたりも考えさせられる。

 

しかしながら、言葉によって望まない社会的な差別や抑圧的な現状を打開したり、改善したりする可能性が生み出せる。少なくとも現状打破のきっかけや可能性を作り出すことができる。

 

この小説は、差別的な状況を表現する単語が存在しないという状況を問題とした。

 

そんな言葉の不在こそ社会的な正義にもとると思う。文学の力はそんな言葉の空白を埋めることにあると思わせてくれる作品だった。