なぜ古典を読むことが大事なのか?シリーズその3の投稿となる。
教養は古典を中心に積み上げるべきだと思う。
なぜならコンテンツが変わらないから。
コンテンツが分からないものを教養の中心に据えるべきだと思う。
その意味で、中学高校や高校の教科書もあまり大きく変わることはない、とても大事な教養の核となりえる。
古典は内容が変わらないから、教養の足場になる。
現代は情報の量が爆発的に増えている時代だ。
ウィキペディアの情報は日々増殖している。
いろいろな国から日々日本に大量の情報が入ってくる。
情報の量が多く、かつ、その変化も激しい流動的な情報空間を生きている現代人にとって変わらない情報と言うのが学習において非常に大事になってくる。
例えば、SNSを使った最新のマーケティング手法を学んだとする。
その知識が10年後に通用する可能性は低いと思う。
しかし、マルクスやアダムスミスの古典から読んだ知識は10年後も古くならない可能性が高い。
変わらないから古典は価値がある。
変わらないから古典を中心に教養を磨くべきなのだ。
トルストイの作品の内容が変化する事はない。
ドストエフスキーの作品の内容自体が変化する事はない。
変わらない情報を足場にして教養のベースを作った上でその後に、流動的な情報空間に臨むべきである。
ある閉じた知識の体系をまずはマスターすることが大事である。
例えばサマーセットモームが選んだ”世界の十大小説”
の全てを読破することは少なくとも達成可能性がある目標だ。
しかし、日々更新される大量のニュース情報を全て読み切ることは達成不可能な目標である。
ある閉じた知識の体系をマスターし、後は、古典から得た教養をベースに類推を働かせることで現在の社会問題も考えることができると思う。
古典はなぜ大事か?
それは古典の内容は変わらないから、教養の土台たりえるからである。
その意味で古典の累積が体幹の強い知力を作り出すのではないだろうか。