古典文学読書会のブログ

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古典の解説書よりも古典そのものを読むべき理由

古典の解説書よりも古典を読むべきだと思う。

 

 

ある時期、古典の解説書をたくさん読んでいた。

 

 

世の中にはアリストテレス入門、マルクス入門、という類のものがたくさんある。

 

 

その手の入門書を貪り読んでいた時期がある。

 

 

 

ある時、年末に本棚の掃除をしながら、自分の蔵書を眺めてみると自分が読んだ本の内容をほとんど忘れてしまっているのに気がついた。

 

 

読んだ本の内容を忘れてしまうことは特別なことではない。

 

 

えてして読書は短期記憶に依拠した行為である。

 

 

読書で得た知識がそのまま長期記憶(生涯にわたって保持される記憶)に保存されることない。

 

 

通常は何度も繰り返し思い出すことで、記憶が強化されて、長期記憶となる。

 

 

以前のブログに書いたが、古典の場合は、自然とリトリーバル(思い出し)が起こり、

 

 

自然と記憶が強化され、長期記憶が形成されやすい。

 

 

対して、古典の解説書はあまり記憶への定着がよくない。

 

 

それはなぜだろうか?

 

 

 

私は解説書の内容が知識の基準点にはなり得ないからだと思っている。

 

 

 

 

もう一度言おう。

 

 

解説書の知識は知の基準点にはなり得ないという問題がある。

 

 

人間は知識のネットワークの中にハブ(基準点)となる知識を持っている。

 

 

物事を判断する際の基準点だ。

 

 

古典の記憶への定着度の高さは知識の基準点になるからだと思う。

 

 

ドストエフスキー、聖書、マルクス、どれも知識のネットワークのハブで、基準点となる情報だ。

 

 

 

ある作品がドストエフスキーの影響を受けている、受けていないなど、ドストエフスキーを一つの基準として、それ以降の文学作品を判別、分類できる。

 

 

解説書の知識を基準点にすることに人間は無意識的に抵抗感を持つと思う。

 

 

解説書を読んでいる本人が、それは古典自体ではなく、解説書の情報だと知っているから。

 

 

人間はある意味ではこの点、とても正直なのだと思う。

 

 

知識の基準点を獲得するには確信度の高さが必要である。

 

 

この知識が本当に自分を考えを整理する上で依拠するだけの信頼度があるのかどうか、という確信度。

 

 

思考のアンカーとしての安心度と言っても良い。

 

 

この情報が基準点なのであるという確信度の高さが必要である。

 

 

ドストエフスキーがこんなこと、あんなことを言っていたという情報を他人から聞いたところで、自分で実際に読んでいないのだから、多少懐疑的になると思う。

 

 

実際に自分で読んでみれば、懐疑を自分で払拭することができる。

 

実際に古典自体を読むことで、それが基準点への確信度の高さを産み、懐疑という認知的なストレスを消去し、ストレスなく貯蔵される長期記憶が生成されるのだと思う。

 

 

だから、古典を読むべきだと思う。

 

 

知識の基準点とならなければ、

 

 

記憶に定着しにくい。結果、知識が積み上げ式に体系的に大きくなっていくことはない。

 

 

長い目で見れば、古典の解説書よりも、古典自体を読んだ方がずっと学習効率が良い。

 

 

だから、古典の解説書よりも古典そのものを読むべきである。