※上が岩波上巻、下が下巻
2つの時間が交互に行き来する物語。
1930年代スターリン政権下のソ連を舞台とした"巨匠"という作家とそのパートナーのマルガリータの物語。並行して展開するもう一つの物語、2000年前のヨシュアとピラトゥス総督の話が交互に展開する。善と悪、現実と幻想、現在と過去が入り乱れる。
一貫したモチーフは罪と救済ではないだろうか。
罪の中でも『臆病』という罪が特に争点なる。
巨匠は自身の小説を発表するがイエス・キリストを讃美していると批判され表現が怖くなってしまったのか、そこで文壇の道を諦めて小説を燃やしてしまう。
他方で、ピラトゥス総督も本当はヨシュアの命を助けたかったのだけど、それをしてしまったら自分の立場が危うくなると思い、ヨシュアの命を助ける勇気がなかった。結果、処刑を認めてしまう。
巨匠もピラトゥスも共に、臆病さという罪のために大切なものを失ってしまう。
2つの時代の中で現在ではヴォランド、過去ではアフラニウスという名前で悪魔が現れる。
これは私の想像になってしまうが、この小説における悪魔は
もしかしたら臆病さが生み出したものではないだろうか?
上巻ハイライトの一つ、悪魔による黒魔術ショーでは悪魔の能力により色々な超常現象が起きる。まさにスターリン政権下おこる権力者による暴力を揶揄しているようだ。
悪魔をスターリンの臆病さの賜物と考えると合点がいかないか?
臆病だからこそ、過剰に粛清をしてしまう人間の弱さの表象なのでは?
過去の話で
ピラトゥス総督は表向きは非キリスト教徒という立場である以上、悪魔にダイレクトにユダを殺してくれとは言えない。ユダが殺されるてユダヤ大祭司カヤファの自宅にユダを買収した金が投げ込まれたら社会不安になると言い訳をしてユダをあくまで守ってくれと頼む。そして悪魔は総督の意図をしっかりと読み取り、ユダを殺す。
こう考えると、悪魔は総督の臆病の象徴というか、臆病さという弱さを補う存在に思えてくる。
ピラトゥスと巨匠をパラレルに考えると、ヴォランドは巨匠の臆病さが生み出したものと考えることはできないだろうか?それは考えすぎか?
下巻のp345で、ピラトゥスに同情的なマルガリータに対して、『全てはうまく収まるだろう。この世はそのようにできているのだから』と悪魔は語る。
巨匠が救われたのだから、ピラトゥスも救われる。巨匠の臆病さを織り込み済みのプロットということだろう。臆病な巨匠が救われた。巨匠の反映のピラトゥス総督も救われた。悪魔の言った通り、全てはうまく収まった。
過去の話が巨匠ではなくヴォランドやマルガリータによっても語られることもあるのはなぜか?この本が未完であり、現在進行形で、色々な形で生成され続けていることを示しているのではないだろうか。
そう考えると、この小説は過去と現在を紡いだ罪と救済の物語であり、救済をえたところで物語は終わる。つまり、ピラトゥスの話も、『巨匠とマルガリータ』という小説そのもも最後に救済を得たところで終わる。
ちなみに、マルガリータの結婚した夫は完璧な人物らしい。若くてハンサムで親切で正直らしい。そんな完璧な人間よりも、完璧とは程遠い、強さも弱さも併せ持つ巨匠のことをマルガリータは好きになった。この点も重要だろうと思う。マルガリータは夫との暮らしに退屈こそしていたが、幸せではなかった。
最後に重要な論点として、
彼らは光ではなく、安らぎを得た。
その違いは何だろうか?
安らぎは死を介して得られる救済ということになると思うが、これは一面的に悪いものととしては書かれていないように思う。
むしろ著者は単純な善悪二元論的な図式を揶揄している節がある。
しかし死を介して辿りついた救済に可能性を広げると21世紀の日本に呑気に生きている私からしたら、当時のソ連社会が人々に課した絶望の深さを想像し愕然としてくる。当時のソ連の過酷な状況下を想像し、その絶望の深さを感じる。この小説にこめられた救済に深いアイロニーを感じる。