古典文学読書会のブログ

会員制の古典文学の読書会を開催しています。 第4金曜日の夜オンライン開催。 問い合わせは、classical.literaturesアットジーメルまで

『源氏物語 A・ウェイリー版』第4巻の読書会議事録

源氏物語ウェイリー版第4巻の読書会を行ったので、その議事録をまとめた。

 

 

・浮舟こそ初めて自立した女性して描かれた人物なのではないか?

 

薫と匂宮の両者と関係を持ち出口の見えない葛藤を経験をする中で、死に取り憑かれていく浮舟。

 

一命を取り留めた後、

 

男どもからの逃れる唯一の手段として明確な決意の元、出家をする。

 

結局、最後に薫に会うこともなく終わっていることも、浮舟の精神的自立を示唆しているのではないだろうか。

 

 

・浮舟はものを書くことによって自分の人生を見出した紫式部のようだ。

 

浮舟はたくさんの和歌を残してるが、自分についての歌も書いている。

 

浮舟は歌を詠むことで自分の人生を見出したのではないか。

 

 

・浮舟は恋愛の中に自分を閉じ込めることに終始することで自分の生き方を見出すことは決してできなかった。

 

浮舟は他の娘たちのように平穏で恵まれた生い立ちではなかった。

 

彼女は常陸の荒々しい土地で育った。

 

少女時代をそこで送った浮舟は、驚くほどの勇気と芯の強さをもっていた。(p321)

 

恵まれた生い立ちであれば、恋愛の中に自分を閉じ込めることもできたであろうが、浮舟は恋愛ワールドに自分を閉じ込めることができなかった。

 

 

 

・父の八宮の存在

 

結婚以外の形で、自分の納得できる人生を見出そうとしたという点では、腹違いの姉妹の大君や中君も近いものがあるが、大君は死んでしまい、中君は匂宮と結婚し俗世の中での暮らしとなる。

 

 

八宮の仏教への惹かれ方は、源氏や紫の上が出家したのとは違う性質の話かもしれない。

 

 

源氏や紫の上は俗世で成功した人物であり、出家はどこか人生の終盤を彩るアクセサリーに近い趣がある。

 

 

対して、八宮は俗世で必ずしも成功しなかったためか(東宮になれなかった)、仏教こそが人生の中心であった。

 

そんな父、八宮の影響が背景にあることも、大君、中君、浮舟を考える上で重要であろう。

 

 

・浮舟は他人にどう見られるかという視点に囚われている

 

もし薫と匂宮との逢瀬が暴露した時、世間は自分をどう見るか?

 

母は自分をどう見るか?

 

さらに、自分が死んで後に人々は自分をどう見るかということに囚われる。

 

そんな思いから、自分の手紙を焼いてしまう。

 

自分という個性が明確にないので、アイデンティティが他者によって容易に規定されてしまうのかもしれない。

 

 

・浮舟にとって自分が納得できる生き方への道は出家しかなかった。

 

ひたすら情欲の対象として自分を追いかけた男たちから自分を隔離する唯一の道が出家であったということは哀れだと思う。

 

女性が自分の人生を切り開く道は、結婚 or 出家しかなかった。

 

浮舟にとって自分の納得できる美しい人生への道は出家しなかったのであろう。

 

ラストのシーンで、薫は誰か他の男が浮舟を匿っていると思い込んで物語は終わる。

 

結局、薫をはじめとした男たちからしたら、浮舟は最後まで情欲の対象でしかなかったわけで、俗世で納得できる生き方をなど見出せるはずもない。

 

 

出家は、自分の納得できる人生を模索した浮舟にあった唯一の選択肢であったのではないか。

 

 

であるならば、作者の紫式部は自分の望む人生を送ることができなかったのではないだろうか。

 

ちなみに、

最後のシーンでの薫の思い込み(勘違い)、出家という理想と俗世という現実の中間を生きた薫という人間の限界を示唆しているとも言える。

 

 

 

・薫には柏木と女三宮の性格的な偏屈さが伝わっているのでは?

 

薫は源氏のようになれないという意味で、

 

エディプスコンプレックスを抱えた存在とも言える。

 

自分が固まりきらないという意味で、シェークスピアハムレットで近いモチーフを見出すことができる。

 

 

・浮舟を通して描かれた女性の理想とする自己像の追求というテーマについて

 

浮舟以外でこのテーマを描くことはできたか?

 

例えば、一貫して源氏に迎合しがちであった紫の上では、自分は、こんな人間でありたいという葛藤は、掘り下げることができかったであろう。

 

また、自分の理想とする自己像を追求したがそれが実現できなかったのは六畳の御息所ではないだろうか。

 

当時は(今でも多分にあてはまるだろうが)、自己を追求する代わりに役割に限定されていた。

 

 

光源氏の特殊性

 

源氏は自己実現が必要ない人であり、もっと言えば自己を持たない人であった。

 

これは全てが許される特赦な地位にあったためではないだろうか。

 

この物語ではあくまで女性たちの人物設定がまずあり、あくまでも女性たちを書くために源氏が存在存在しているのではないだろか。

 

・姉妹訳の螺旋訳

 

今回、翻訳とは何かということを考えさせらた。

 

また今回、螺旋訳の仕事をしたのが女性ということもよかったのだろう。

 

などの意見が出た。

 

源氏物語ウェイリー版の螺旋訳凄かった。

 

 

 

 

 

 

 

古典文学読書会へ参加してくださった方の体験談集

2024年4月16日更新

 

【60代 女性】

・教科書で習ったのにタイトルしか知らなかった名著を読んでみたかったが、1人では読破できそうになかった。時限付きの読書会で自分を追い込む事へのメリットがある。

・他人の意見を聞く事によって違う視点からの理解が出来る。また、お互いに読み違いに気づく事もある。

・自分では選択してなかったと思う分野も提案される。しかし課題として読んでみれば、面白さに気付く事が出来る。

・内容の背景など、自身では調べて無かった分野の解説を聞けるので、1人読書では得られなかった深味が増す。

 

【50代 男性】

自分は、Y先生に電気主任技術者の資格取得のために、小学4年生の分数から始まって中学数学、高校数学から物理~電気物理と6年位、個人授業を受けて、その中で問題の文章が何を言っているのか、どういう答えを求めているのかを、短い時間で的確に読み解く能力を鍛える事が大切だと思いはじめて、先生に相談して古典文学の読書、要約文を書き続けることによって、読解力を養う、鍛えることを目指して、自分は始まりました。

元々、哲学や宗教学が好きで、読書をするのも好きでしたが、何人かで共通の本を読み、要約文を書いて聞いてもらうこ事や、他の人の意見を聞くことによって一冊の本が何通りかの見方でとらえられるのは、とても得なことだと思います。

分量の多い本、内容がわかりずらい本、間際になって読み始めてしまうと楽しさよりつらさの方が多かったりと、本の内容とは別の事柄も勉強になります。

1つ目的のために、10年、20年とコツコツと積み上げて行く事の重要さ、小さな事の積み重ね、累積が人生の宝と思えます。自分にとっての幸福、本当の意味での生きる意味を探りながら古典の中のヒントを手がかりに自分の人生哲学を構築し、その道筋を後の人の参考になれがと思います。

読書をする。物語を読む。今の自分とは違った物語の主人公になる。読書のメリットはたくさんあると思います。良い習慣は人生を豊かなにする。生涯にわたって数学・物理の勉強、古典文学の読書、要約は続けていきたいです。

 

【50代 女性】

今回、3回程ですが読書会へ参加させて頂き読書から学べる事と会のみなさまと共感し合うことを学ぶことができました。そして、意見を述べる事により新たな発見をする事も出来ました。ですが、一番の発見は私的に読書(活字本)は苦手と思っていましたが読み初めてみると意外と読めて「私も読めるんだ」と言う自信が持てた事です。その他、参加された皆様の読書との向き合い方や人間性も自分自身感じることができました。

 

【30代 男性】

古典文学の奥深さを読書会で読み合わせることで、一人で読んでいては気づかなかったそれぞれの意見、見解がとても面白く、毎回楽しみにしています。

Klara and the Sun、Kazuo Ishiguro (著)

Klara and the Sun、洋書マラソン6冊目

 

読書期間 

2024年1月から3月18日

 

 

ページ数は340ページ。

 

英語の小説としては読みやすい方だったと思う。

 

 

一部、難しい表現は確かにあったが。

 

 

例えば、遺伝子編集の手術を受けた子供を表すliftedを和訳版では「向上処置」としている。「向上処置」はこの小説の中で出てくる専門用語だが、この点だけに注目すれば日本語版の方がわかりやすい。

 

 

しかし、全体としてみれば原語の英語で読む方がストーリーに感情移入しやすいと感じた。

 

 

 

本の要旨は以下の通り。

 

 

全体をつらくぬ問いは、

 

 

ロボットが完全に人間を学習し、人間になることは可能か?

 

 

愛をロボットが学習して、コピーすることは可能か?

 

 

愛とは何か?

 

 

物語の前半では、ロボットが人間を完全に学習することは可能であるとアーティフィシャル・フレンドのクララは断言する。

 

 

物語の主人公はジェジーという病弱の女の子。

 

 

その女の子の家に買われたロボットのクララ。

 

 

クララは完全にジェジーを学習すれば、ジェジーそのものになることが可能であると当初は考える。

 

 

ジェジーを世界に一人しかないジェジーたらしめるユニークな特性はあるのか?

 

 

もしあるとしたら、それをロボットが学習し、コピーすることが可能か?

 

 

当初、クララはそのようなユニークな特性は存在せず、あらゆる人間の特性はロボットが学習可能であると考える。

 

 

 

そして、物語はラストシーンへ。

 

 

 

 

物語の最後に、その考えは誤りであったとクララは考える。

 

 

 

周囲の人がジェジーを愛する気持ちにこそ、ジェジーをジェジーたらしめる何かがある。

 

 

 

その周囲からの愛情は決して、コピーしたりできないものだ。

 

 

 

だから、ジェジーをジェジーたらしめるものは、ジェジー自身の中にあるというよりも、

 

 

ジェジーの周囲にある。

 

 

愛とは何か?

 

 

ジェジーの中にではなくジェジーと周囲の人との関係の中に見出されるものだ。

 

 

 

ロボットのクララはそう結論して物語が終わる。

 

 

『源氏物語 A・ウェイリー版』第3巻の読書会議事録

源氏物語ウェイリー版第3巻読書会を行ったので、その議事録をまとめた。

 

・面白そうな箇所をピックアップして、ウェイリーの英訳と姉妹訳とを見比べてみた。

 

As the weeks "vent by, the child grew more and more attractive, and before long even the' touch of bitterness' that ItS existence had been wont to lend to Genjis thoughts utterly disappeared. He felt that the child, now a source of so much delight to him, was destined to be born In that way and no other. Kashiwagi had but been the Instrument of Fate. Among the strange consistencies of hIs apparently enviable lot, none (thought GenJI) was more curious than this, that the one lady In his household who was of faultless lineage, young, beautiful, In every way Immaculate, should after a short spell of marriage WIth him declare her preference for the convent! At SUCh moments some of the old bitterness agaInst Kashiwagt would for a while return.

(The Tale of Genji, p695)

 

 

姉妹訳の252ページに対応している。

 

源氏の柏木に対する赦しが仄めからされている場面である。英訳では、大文字のFate(キリスト教的な意味での絶対神の御力による運命)や「穢れなき」ということを表現するのに無原罪の懐胎を意味するimmaculateという言葉が使われている。

 

Fate、「運命」は日本文化で言う「宿命」ではないだろうか?宿命とは仏教用語で前世から定まっている事柄の意味である。

 

ウェイリーは日本文化や仏教の知識にも精通していと思われるが、あえてイギリス人、ひいてはキリスト教文化圏の人間にわかりやすいようにキリスト教用語を使っていると思われる。

 

このあたりは日本人が現代語に訳した翻訳にはないウェイリー版の特徴と言え、異文化理解が進んだように感じた。

 

 

 

女三宮の登場あたりから源氏のヒーロー物語が暗転していく。

 

源氏は頭中将の息子柏木に女三宮を取られた形となった。

 

このあたりから源氏の精神性、人格的な完結性が崩れていく。

 

あらゆる人を受け入れ、愛してきた源氏だが、全ての人を愛せる存在ではなくなっていく。

 

源氏のヒーロー像が暗転していく。

 

また時を同じくして紫の上も崩れていく。

 

紫の上は、血筋で劣り、正妻にはなれない立場にあり、さらに自分よりもずっと若く血筋も優位な女三宮(朱雀天皇の娘)の登場に激しく動揺する。

 

紫の上自身が、年若い時に源氏に引き取られ、その後、源氏の妻になっていくわけであるが、自分と似た物語を持っている女三宮に動揺したのではないだろうか。

 

 

・物語全体としてみても女三宮の登場が転換点になっている。

女三宮の登場以前は、竹取物語など源氏物語以前にあった物語を洗練させたような話が続く。

 

女三の宮の登場以後、源氏のヒーロー像にかげりが見える。その後、源氏が逝去する。

 

そして、宇治十帖にはいると、どうにもならない人たちのどうにもならない物語へと話の質が変容する。

 

源氏物語は宇治十帖が特に面白いという意見が出た。

 

宇治十帖は、ゲーテの親和力やアンドレジッドの狭き門などに通じるものがる。

 

 

・八宮と総角について

 

八宮という異常な人間の閉鎖的なコミューンの中で総角は人格形成をした。

 

・匂宮と薫は二人を合わせて源氏

 

型として愛を匂王(色々な愛人がいる)が、

 

精神として愛を薫が体現しているのではないだろうか。

 

匂宮と薫を二人、合わせて源氏になるのでは?

 

 

 

・音楽が色々な箇所で登場する。

 

例えば、「横笛」の帖など。

 

作者の紫式部は音楽よりも言葉が得意な言葉の人間だったはず。言葉の対極にある音楽に惹かれたのではないか。

 

・霊とは?

 

紫の上、柏木に六条の御息所の霊がとりついた。

 

当時は霊は、今よりずっとリアリティが強いものであった。

 

六条の御息所は最も賢く、高貴な地位にある女性。だからこそ生まれてしまう、欲動、執着があるだろう。

 

当時としては、陰陽師は今で言う公務員であり、霊媒は、科学であり、自然現象に対する説明能力があるとされていた。

 

明治、大正ですら、祈祷師を呼んで病を治すというのは普通にあった。

 

 

 

・薫と総角が結ばれなかったのは偶然ではなく必然か。

 

からしたら、八宮の元で仏教教育を受け、父の影響を大きく受けた総角は理想の女性。

 

総角も薫が自分の思う理想通りに二人きりになった時に動いてくれると期待していた。

 

お互いが互いに対して、幻想を見ていた。

 

その意味で、薫と総角が結ばれなかったのは必然と言えるのではないだろうか。

 

 

古典の解説書よりも古典そのものを読むべき理由

古典の解説書よりも古典を読むべきだと思う。

 

 

ある時期、古典の解説書をたくさん読んでいた。

 

 

世の中にはアリストテレス入門、マルクス入門、という類のものがたくさんある。

 

 

その手の入門書を貪り読んでいた時期がある。

 

 

 

ある時、年末に本棚の掃除をしながら、自分の蔵書を眺めてみると自分が読んだ本の内容をほとんど忘れてしまっているのに気がついた。

 

 

読んだ本の内容を忘れてしまうことは特別なことではない。

 

 

えてして読書は短期記憶に依拠した行為である。

 

 

読書で得た知識がそのまま長期記憶(生涯にわたって保持される記憶)に保存されることない。

 

 

通常は何度も繰り返し思い出すことで、記憶が強化されて、長期記憶となる。

 

 

以前のブログに書いたが、古典の場合は、自然とリトリーバル(思い出し)が起こり、

 

 

自然と記憶が強化され、長期記憶が形成されやすい。

 

 

対して、古典の解説書はあまり記憶への定着がよくない。

 

 

それはなぜだろうか?

 

 

 

私は解説書の内容が知識の基準点にはなり得ないからだと思っている。

 

 

 

 

もう一度言おう。

 

 

解説書の知識は知の基準点にはなり得ないという問題がある。

 

 

人間は知識のネットワークの中にハブ(基準点)となる知識を持っている。

 

 

物事を判断する際の基準点だ。

 

 

古典の記憶への定着度の高さは知識の基準点になるからだと思う。

 

 

ドストエフスキー、聖書、マルクス、どれも知識のネットワークのハブで、基準点となる情報だ。

 

 

 

ある作品がドストエフスキーの影響を受けている、受けていないなど、ドストエフスキーを一つの基準として、それ以降の文学作品を判別、分類できる。

 

 

解説書の知識を基準点にすることに人間は無意識的に抵抗感を持つと思う。

 

 

解説書を読んでいる本人が、それは古典自体ではなく、解説書の情報だと知っているから。

 

 

人間はある意味ではこの点、とても正直なのだと思う。

 

 

知識の基準点を獲得するには確信度の高さが必要である。

 

 

この知識が本当に自分を考えを整理する上で依拠するだけの信頼度があるのかどうか、という確信度。

 

 

思考のアンカーとしての安心度と言っても良い。

 

 

この情報が基準点なのであるという確信度の高さが必要である。

 

 

ドストエフスキーがこんなこと、あんなことを言っていたという情報を他人から聞いたところで、自分で実際に読んでいないのだから、多少懐疑的になると思う。

 

 

実際に自分で読んでみれば、懐疑を自分で払拭することができる。

 

実際に古典自体を読むことで、それが基準点への確信度の高さを産み、懐疑という認知的なストレスを消去し、ストレスなく貯蔵される長期記憶が生成されるのだと思う。

 

 

だから、古典を読むべきだと思う。

 

 

知識の基準点とならなければ、

 

 

記憶に定着しにくい。結果、知識が積み上げ式に体系的に大きくなっていくことはない。

 

 

長い目で見れば、古典の解説書よりも、古典自体を読んだ方がずっと学習効率が良い。

 

 

だから、古典の解説書よりも古典そのものを読むべきである。

 

 

 

 

 

 

 

 

『源氏物語 A・ウェイリー版』第2巻の読書会議事録

今回は『源氏物語ウェイリー版』の第2巻について、読書会を行ったので、その議事録をまとめた。

 

今回もペンギン社が作っている読書会用の質問から始まった。

https://www.penguinrandomhouse.com/books/297312/the-tale-of-genji-by-murasaki-shikibu/9780143039495/readers-guide/

 

 

第17帖では絵について、第25帖ではフィクションについての芸術論が論ぜれた。現代における絵やフィクションという芸術分野との関連は何だろうか?

 

 

第17帖では、レディ・アキノコムとレディ・チュウジョウ側とに別れて、それぞれが持ち寄った絵の優劣を競い合うコンテストを開催した。

 

単に、絵と絵の対決というよりも、物語の中に埋め込まれている絵に関する対決であった、という点に留意したい。

 

 

第1戦では、竹取物語対宇津保物語。

 

 

第2戦では、伊勢物語対小三位であった。

 

 

つまりに絵画と文学が分かれていないのだ。

 

 

最後の第3戦における源氏の絵は、源氏自身が経験した須磨流謫の物語を背景をしている。

 

その意味では、須磨流謫の貴種流離譚(高貴な生まれの人間が苦難をへて帰還する説話の型)の物語が、前者の竹取物語などの古典に優ったともいえる。

 

絵あわせにおいて、観るものの心に訴えかける源氏の絵が勝利したのは、ある意味通俗的な結末とも言える。その意味で、25帖のフィクション論の布石として絵わせでの源氏の勝利を捉えることもできるのではないか?

 

 

第25帖では、フィクションという芸術様式についての語りがある。ここは本来のストリーリーの筋からは独立している内容であり、この帖がなくても問題がないとも言えるので、逆に言えば、どうしても紫式部はこの帖を書きたかったのではないだろうか?

 

日本書記などの歴史書は、人生のほんの一面しか見せてくれない。しかし、フィクションの扱う範囲はそれよりも広く人生のプライヴェートな出来事も細々と見せてくれる。

 

 

単なる現実を越えるという意味で、フィクションの素晴らしさが語られる。

 

それは、第17帖で、須磨流謫という “現実”に即した物語で勝利したのを踏まえて、それでも、”現実”を越えるのがフィクションという形式であると主張しているとも解釈できる。

 

ちなみに、漢文で書かれた歴史書の日本書記を揶揄しているのは男社会を揶揄しているとも取れる。

 

第25帖の日本書紀と対比しての小説という部分は、翻訳者のウェイリーが原文に無い内容を加筆しているのも興味深い。

 

第2巻p497の冒頭と、原文を比較するとわかる。

https://classicstudies.jimdofree.com/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E5%85%A8%E6%96%87/#25%20%E8%9B%8D

 

 

そもそもペンギン社は欧州の出版社であるが、

西洋文学にはおいては、プルーストの『失われた時を求めて』において、小説という分野が完成したと言われているようだ。日本では源氏物語においてある意味では、小説という分野が完成していたという西洋人の認識の下で、この質問が作られたのではないか?

 

ちなみに、プルーストで完成した小説が解体されるのは、ジェームズ・ジョイスのようだ。

 

 

 

 

・源氏に口説かれても関係を持たなかった三人の女の共通点は?

 

 

当該の三人の女とは、

 

 

秋好中宮

朝顔

玉鬘

 

である。

 

秋好中宮は伊勢の斎宮に、朝顔は賀茂の斎院になった期間があった。神道神職にある期間はいくら源氏といえでも手はだせない。

 

また、秋好中宮は、六条の御息所の娘であり、源氏と関係のあった六条は、自らの死後の娘の世話を源氏に託している。このことも源氏が、一線を超えなかった要因にあるのでは?

 

朝顔に関しては、p248で、源氏のことは嫌いではなかったが、もし自分も源氏と関係を持てば、結果的に、他の多くの源氏と関係をもった女性と同じく、崇拝者の一人とみなされ、惨めな思いをするであろうと語っている。また、彼女は、明確に仏教徒としての意識をもっており、神道の聖職である賀茂の斎院での仕事をしてしまっことに罪の意識をもっており、最終的に仏教の聖職に身を捧げたいと思っている。明確な仏教徒意識を持ちながら、神道の聖職をすることになった数奇な運命を歩んだ人もである。

 

玉鬘に関して、当初は、自分の養女として引き取った手前もあるのではないか?

 

などの意見が出された。

 

 

・玉鬘は魅力的か?

 

絶世の美女なのだからそれだけでも魅力的という意見が出た一方で、玉鬘は主体性が乏しいとの意見も出た。玉鬘は、主体性が乏しいという意味で、竹取物語かぐや姫に近いとの意見が出た。もちろん天上に行かないかぐや姫という意味だ。玉鬘には主体性が乏しいので、スケベな中年親父になりつつある源氏を表現しやすかったのではないか?

 

 

『源氏物語 A・ウェイリー版』第1巻

今年は日本の古典を読む年した。

 

1月は、源氏物語のウィリー版の第1巻について読書会を開催した。

 

以下、議事録である。

 

大河ドラマ『光る君へ』を観ている参加者もいた。

 

以下、例会での議論の一部を要約した。

 

議論の導線として世界的な出版社であるPenguin Random Houseの源氏物語のページを参照した。

 

https://www.penguinrandomhouse.com/books/297312/the-tale-of-genji-by-murasaki-shikibu/9780143039495/readers-guide/

 

今回、ペンギン社のページから、用いた質問は以下の通りである。

 

DISCUSSION QUESTIONS

 

What do the men in the tale value in a woman?

 

How does a man gain access to a woman, and how does a woman safeguard her dignity?

 

How do the characters in the tale define personal worth? What do they admire?

 

What consequences flow from the birth of Genji’s son by his father’s Empress?

 

What are the reasons for Genji’s exile (chapter 13) and its consequences?

 

 

 

 

・当時は今とは比べ物にならない身分制社会

インド、イスラームでは今でも強固な身分制社会が存在する。

自由恋愛というのは19世紀のフランス文学などで見られるようになるが、それ以前は一般的にではなかったはず。

 

・男たちは女性のどこに魅力をみいだすか?

源氏の場合はストライクゾーンが広い。容姿の魅力の乏しい末摘花と関係を持ったり、年はとっているが色好みの源典侍と噂になるなど、ストラクゾーンが広い源氏。

 

源氏は藤壺や紫など母親に似ている女性に惹かれている。

 

 

・世界で最初の小説

それ以前の物語は基本的に歌物語であり、恋愛叙事詩であり、叙事詩であり、つまりきっちりとした『型』があり、その中に内容を詰め込んでいた。

 

源氏物語でも『歌』、つまり『型』は頻出するかが、その周辺に『歌』の内容を補足するかのごとくの登場人物の様子や心の動きなどの散文的な描写が展開している。

 

和歌 →  小説

 

という変遷をあえて提起すれば、紫式部は、和歌以外の部分をつくった、と言える。

 

・一貫して、従順な紫の上

従順すぎる紫に魅力を感じないという意見が出た。紫の気持ちを一貫して、源氏は理解しない、すれ違いが続くシーンが繰り返される。更に、進んで、ここまで従順ということは何か紫も意図があっての従順なのでは?紫、本当は悪女説も論じられた。

 

また、作者の紫式部は、平安貴族の男性たちへ批判的な眼差しもあるのでは?という意見も出た。どこか貴族男性のやりすぎ感を揶揄している節があると読めないこともない。

 

藤壺からは、尋常ではない意志の強さを感じる。

一回、源氏と関係を持って孕って以降は、一貫して源氏と関係を持っていない。気持ちがある男性と一度関係を持った後なのにも関わらず、それ以降、一貫して拒み続けることができる女性は珍しいのではないか。もちろん皇太子を守るという動機もあったとは思うが、藤壺の尋常ではない意志の強さも読み取れる。藤壺の意志の強さからは、単に皇太子を守るためという『効用』を超えた意志の強さを感じる。

 

・須磨流謫について

この須磨流しは、貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)という、説話の型の一つだろう。高貴な生まれの人間が困難を克服していく話で、ギリシャ神話のオデュッセウスの話や古事記大国主命の話などが挙げらる。

 

源氏の須磨流謫は、貴種流離譚の典型だろう。

 

ここで留意しておきたい点とは須磨に海があることだ。海は異世界の象徴であり、まさに流謫の地としてふさわしい。そこで海の神である龍神と対話したりもしている。

 

なぜ須磨の海である必要があるのか?大阪や和歌山近郊の海でなく、須磨の海である必然性は?という質問が提起されたが、明確な仮説は出なかった。

 

ちなみに、日本史において島流が一般的になるのは、もう少し後の時代である。ロジスティックの都合などにより、まだ、この時代では島流しは一般的ではなかった。