古典文学読書会のブログ

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『愚管抄』大隅和雄訳 読書会議事録

2024年11月の読書会では、『愚管抄』を扱ったので、議事録の一部を公開する。

 

 

慈円は『愚管抄』全7巻の3巻から書き始めた。

 

最初に第1巻から読んでみたが、不慣れな固有名詞が多くなかなか頭に入ってこなかった。

 

著者の慈円は第3巻から書き始めたようで、第3巻以降の方が読みやすく感じた。

 

というもの、これまでこの読書会で読んできた

 

源氏物語

 

平家物語

 

に登場した名前や時代背景が登場したので、読みやすく感じた。

 

さらに、藤原摂関家道長の登場など今まで別々の本やNHK大河ドラマ(『平清盛』、『鎌倉殿の13人』、『光る君へ』)で出てきた人物が一同にかいしており、『愚管抄』を通して一つの歴史の流れとして捉えることができた。

 

源頼朝贔屓の本

 

頼朝は共に平氏と戦った武士たちは殺していったわけで、疑わしきは殺すというイメージがある。

 

・芸術が花開くには世の中が安定している必要がある?

 

平安時代の中期は世の中が安定していた。

 

源氏物語に象徴的であるように知的、芸術的なものが花開いた。

 

慈円藤原道長を評価しているようであるが、平和な時代を統治した道長の功績は大きいのだろう。

 

 

・「道理」がキーワード

 

「道理」が『愚管抄』のキーワード。

 

色々な道理があり、時代と共に道理も変化するようで、なんとも捉えどころのない概念である。

 

 

・『愚管抄』が書かれたのが乱世であったが、現代は乱世か?

 

気候変動の問題は年々深刻さを増している。

 

格差や物価の上昇で人々は先を見て行動しなくなっている。

 

大学生の学力の低下の問題なども嘆かれている。

 

悲観せずにはいられない現実があるが、そもそも資本主義とは格差を前提したシステムであるという意見も出た。

 

ただ、現代における社会全体の劣化を論じる前に、

 

日本人の持つネガティブさ(悲観な性質)を考慮する必要はあるかもしれない。

 

北欧系の組織での実務経験のある参加者曰く、

 

北欧でこれからの若者はどうなるのか?

 

という質問をした。

 

すると、回答は日本で考えらないほどポジティブだった。

 

北欧ではより若者の未来についてポジティブに考えられている理由としては、「これからの若者はインターネットなど新しい情報源を使えるから」

 

「文明の力をつかってよりよりものを作っていけるから」

 

という理由であった。

 

対して、日本ではインターネットなどの技術を用いて、次世代がよりよい社会が切り開けるというポジティブな展望を耳にすることは少ない。

 

また、以前、本国北欧から労働状況の調査に入られた。

 

日本人の従業員も北欧から来た調査担当者と一対一で質問をされた。

 

誰が何を言ったかは、秘密にするという条件で。

 

結果は、驚くほどネガティブであった。

 

北欧人の上司は日本人は、こんなにもネガティブなことを言うのかと驚いた。

 

思うに、調査担当者が北欧人であったから日本人は正直に不満を言ったのではないだろうか。

 

正直に不満を言うことには、リスクも伴う。

 

 

誰が不満を言っているのかが、バレてしまえば、出世に影響する可能性もある。

 

 

しかし、日本人の従業員は相手が、北欧からの調査チームだったので、信頼したのではないか?

 

 

・第7巻を見せてはいけないと、慈円は言っていた?

 

P106では、

 

「ただし別巻は特に許された者以外に見せてはならない」

 

とある。

 

この別巻というのが山門(延暦寺)のことを書いた巻か、もしくは第7巻なのではという説もある。

 

第7巻では、末法の世における人材不足が嘆かれる。

 

 

慈円法然に対する態度について

 

慈円天台座主(当時の最主流仏教のトップ)として、

 

異端の法然を批判するが、他方法然流罪には反対し、

 

更に『歎異抄』の親鸞を支持した。

 

法然については、p339からp401に書かれている。

 

先月の読書会がまさに法然の教えとの関係の深い書である『歎異抄』であった。

 

歎異抄』の後半は当時広まっていた親鸞の教えの曲解に対する反論である。

 

 

歎異抄』では、

 

南無阿弥陀仏と唱えれば、どんなことをしても救われるというのは誤解であると書かれている。

 

自分の計らいで、念仏を唱えるというよりも、阿弥陀様の御力により、「自然に」念仏を唱えるようになるということだ。

 

 

愚管抄』の記述は概ね『歎異抄』と整合していると見られる。

 

 

つまり慈円は『歎異抄』にはどちらと言えば肯定的だと考えるられる節がある。

 

 

愚管抄』のp339で

 

「専従念仏の修行者となったならば、女犯を好んでも、魚鳥を食べても、阿弥陀仏は少しもおとがめにならない。一向専修の道に入って、念仏だけを信じるならば、かならず臨終の時に極楽に迎えに来てくださるぞ」とある。

 

これこそまさに、唯円の『歎異抄』の中で間違った専修念仏の解釈として紹介されている例であろうから、

 

慈円が、『歎異抄』を支持したのもの、慈円親鸞が説いていたことの核心にある他力本願尾や自然(自分の計らいではなく、ある時に、自然に阿弥陀様の御力により念仏を唱えるようになる)の思想をよく理解していたのではないか。

 

 

つまり、慈円法然親鸞が言いたかったことの核心部分は支持するが、浅い理解をする人がたくさんいるが問題と考えたのではないか?もしくは、法然の思想の中身というよりも、その伝え方に問題があると考えていたのではないか?

 

 

 

慈円花田清輝が高く評価した。

 

花田は吉本隆明との激論で知られる戦後左翼の代表的評論家だが、現在は一部の

専門家以外には語られることはない。

 

長く共産党員でしたが安部公房らと共に除名されている。

 

花田の視点にたてば、

 

慈円は元関白藤原忠通の息子、時の関白九条兼実の弟、

 

天台座主いう宗教界トップでいながら、歴史的必然性から武家政権を肯定した天皇制との

 

融和論に則り『愚管抄』によって後鳥羽上皇天皇親政クーデター=承久の変を諌めた人間ということになる。

 

今で言えば父、兄を総理に持つ東大総長が、時の天皇に噛みついて正義よりも平和を求めたもの、ある意味象徴天皇制の祖の一面も有する政治的リアリストにして偉大な歴史主義者との見方もできそうである。

 

 

 

・日本と天皇制と諸外国の王政について

 

日本の天皇制は摂関制とこれを打破せんと導入した院政にも失敗して形骸化を続け、承久の乱(更に100年後の南北朝政変)敗北後は、天皇儀礼遂行者と勲位授与など一部の形式的人事権者のみの立場に転落、以降700年間近く『愚管抄』主張の武士優位皇武合体体制が続いた。

 

 

これが見直され、奈良時代のような過剰天皇制に移行するのが明治維新以降80年、戦争に負け、「武士」を「国民」に置き換えた象徴天皇制への再見直と定着が戦後80年で、現在の天皇制は『愚管抄』思想回帰とも言える。

 

 

さて、北欧諸国は日本では高福祉(高負担だが)の左派リベラルの先行国家と位置付けられているが、フィンランドを除くスウェーデンノルウェーデンマークの3カ国は今も王制である。

 

ロシアやドイツを含め領土戦争が激しかったスカンジナビア半島ゆえ、国境戦争のなかった日本と同一視はできないが、

 

世界で28ヶ国にまで減った数少ない王制国を何故北欧3王国王朝か守り続けているのか、

 

 

また、北欧王政が英国やベネルクス3国同様日本天皇制のあるべきモデルの役割を果たしうるものなのか?

 

これに対して、以下のような回答があった。

 

北欧の王室は日本の皇室全く違う。

 

まず神性はあまりおびていない。

 

国王、王妃は人間である。

 

 

ベルギーではチョコクッキーの缶に出ている。

 

その意味で、北欧やベルギーの王室は、

 

キティちゃんとミッフィーちゃんのような存在かもしれない。

 

 

普通にスピード違反で捕まったりする。

 

 

日本でいえば、吉永小百合などの人気のある往年の俳優という立ち位置ではないか。

 

という回答が北欧に詳しい参加者からあった。

 

・「日本の国は女人が完成する」という記述について

 

平安時代は妻の家への通い婚が普通であったので、女性によって物事が完成するという感覚が一般的にあったのではないか。

 

また、日本に中央集権的なシステムを導入したのは、男性の天皇(天智天皇天武天皇など)であるが、

 

システムを整備し、完成度を高めたのが持統天皇などの女性の天皇であり、まさに女人が完成させたとの言えるのではないだろうか。

 

 

 

『歎異抄』 川村湊訳 読書会議事録

2024年10月の第65回古典文学読書会では、『歎異抄』川村湊訳について話し合ったので、議事録を公開する。

 

以下、課題図書を事前に読了してきた参加者によるディスカッションである。

 

・今回の翻訳、開催弁の歎異抄について

 

広島弁の聖書を思い出した。

 

 

一神教との類似点

 

自力による救済ではなく、阿弥陀に委ねることで、道を見出すという点でキリスト教などの一神教と似ているとの意見が出た。

 

 

唯円歎異抄をまとめていったプロセスはパウロキリスト教をつくっていたプロセスと似ているという意見も出た。

 

歎異抄が日本史の表舞台に出てくるのは明治時代以降

 

明治時代に清沢満之という人が歎異抄を紹介する。

 

すると三木清服部之総といった左翼のインテリなどに受け入れられた。

 

なぜ明治時代まで表に出てこなかったのか?

 

悪人こそ救われる、人を殺しても、、、、一見すると危険思想ともとられかねない内容を歎異抄が内包していたからではないか?

 

また、お布施の額に関わらず、救われるという内容が歎異抄には書かれているが、これも当時のお寺からしたら、歎異抄を隠しておきたい理由となったのではないか。

 

 

歎異抄は戦後の民主主義の考え方に馴染む側面があったのか、

 

 

野間宏吉本隆明などに支持された。

 

 

 

親鸞浄土教における立ち位置の解釈

 

  • 法然が創始し、親鸞がそれに続き、新宗教としての礎をきづいた。親鸞こそが浄土教の主要な人物。
  • 親鸞法然の弟子ではあったが、主要な弟子ではなかった。一番弟子ではなかった。後に流刑で辺境の地である関東に長くいた。悲僧非俗のマージナルな人、かつ、周縁いた人だからこそ、異端的な思想を打ち立てることができた。

 

 

キリスト教との類似 その2

 

エスが出てきた当時のユダヤ教は官僚的で、知的な側面が強く、戒律の縛りも強かった。

 

エスはそんなユダヤ教の戒律のよる縛りを排除し、一般庶民も触れやすいように素朴に解釈し直した。

 

最も貧しい人たちに視線を送っている点は、イエスと共通する。

 

勉強しないと救われないような教えではない。

 

平等性を謳っている点で、イエスと似ているのではないか。

 

悪人正機」とはキリスト教でいう、「心貧しきものは幸いなり」という福音書の一節のことではないか。

 

 

対して、西国、京都の仏教は、国家安康のための宗教であったであろう。

 

 

・悪の問題

 

善い人間、悪い人間は、縁が決めるとある。

 

悪い行いしても、念仏を唱えれば良いというわけでもない。念仏を自分の意思で唱えることは、自力救済になってしまうので、そもそも親鸞の教えからはズレてしまう。

 

 

歎異抄では、マルキ・ド・サドドストエフスキーが書いたような「絶対悪」の問題は扱っておらず、「相対悪」の問題と扱っていると思われる。

 

 

「絶対悪」とは映画バットマンのジョーカーのような悪事のために悪を行う悪人のことだ。

 

しばしば一神教文化圏では、神の不在と結びつけて論じられる。

 

親鸞は、殺人などの行いをする人間は縁によってそうなっていると主張し、それは絶対悪というよりも、煩悩の延長戦上にある悪として、相対悪の範囲内での話であろう。

 

親鸞は、実存的なレベルでの悪については突き詰めて、考えているわけではないのでは、という意見も出た。

 

 

・他力の理解について

 

自分の意思で念仏を唱えるわけではない。

 

ある時、自然と唱えるようになる。

 

こうしたら救われるからと、自分で計りごとをして、念仏を唱えては自力救済になってしまい、「他力」にならない。

 

阿弥陀様のはからいにより、ある時、自然と念仏が口から出てくるようになる。

 

これは國分功一郎が言う所の「中動態」のことではないか?

 

自分の意思で唱える能動でもなく、

 

完全に受動でもない(声に出して念仏を唱えているのは自分)

 

その意味で、これは中動態の世界のことを言っているのでは?

 

 

 

・なぜ浄土教阿弥陀如来を受容したのか?

 

 

仏教には密教大日如来など阿弥陀如来以外にも重要な仏はある。

 

 

浄土教阿弥陀如来を中心にした教えだ。

 

 

中国の善導が阿弥陀如来を受容。

 

それを日本人の法然が受容した形だ。

 

 

仏教の伝来は基本的に中国、朝鮮経由である。

 

直にインド仏教、梵字の経典を読むことは漢文に比べれば、あまりなかったのではないか。

 

 

・信仰と倫理は違う

 

歎異抄では信仰と倫理が切り分けられている。

 

親のために供養をする、たくさん布施をする、悪行をしない、これらは倫理である。

 

歎異抄では、これら倫理的な行いと、信仰とは別であると説く。

 

倫理を信仰と切断したことが歎異抄の宗教書としての強さではないか?

 

現実問題として、正しい行いし、真っ当な努力をして、倫理的に生きても救われない人はたくさんいる。

 

倫理的に正しい生き方と救いを分けている。

 

つまり、

 

人間の行いの領域と、信仰の領域を分けた。

 

 

これが歎異抄の魅力の源泉なのではないか。

 

 

『平家物語』 古川日出男訳 後半 読書会議事録

2024年9月の読書会では、

 

『平家物語』古川日出男訳の後半部分を読んだので

 

読書会議事録を公開する。

 

 

・『平家物語』古川訳は、後半に進むにつれて読みやすくなる。

 

語り口調にスピード感が増し、没落を描いた部分では特にそのスピード感が際立つ。

 

夢枕獏の『陰陽師』のような雰囲気が感じられる、という意見もあった。

 

 

大河ドラマの印象は強い

 

2012年の大河ドラマ平清盛』では、義経役をタッキーが演じていた。その印象が非常に強く、義経=タッキーというイメージが根強く残っている。

 

最近では、『鎌倉殿の十三人』で菅田将暉義経を演じたため、両方を観ることで義経に対するイメージが中和されていく、という意見も出た。

 

また、尾上菊五郎源義経富司純子静御前を演じた印象もある。

 

義経の天才伝説について。

 

源義経の軍事的天才像は、『義経記』の後に作られた可能性が高いと言われている。ちなみに、町田康さんの作品『ギケイキ』は義経を主人公として描いている。

 

 

中原中也小林秀雄について。

 

中原中也は医者の息子に生まれるが、うまく世の中を渡れない。中退の学歴を繰り返す。挫折者であることが彼の作風を影響を与えている。ヤンキー的な要素がある。

 

小林秀雄に愛人を奪われた。小林秀雄はその愛人を別れてから、体制化していく。

 

詩は言葉であって言葉でない。言葉以前の問題がある。西田哲学で言う純粋直観。

 

小林秀雄は彼の世代の中では別格の文学者であった。拡張高い文体。悲劇的な要素もある。

 

 

平重衡法然に会っていないのが史学の通説。

 

法然は当時はいわばカルト認定されていた。

 

親鸞も元々はカルト認定されていた。

 

つまり体制側の宗派ではないわけである。

 

平安時代になると、空海最澄天台宗真言宗を開き、桓武天皇が韓国系の血筋を引いていたこともあり、これらの宗派も体制化していった。

 

一方、法然親鸞の宗派は「南無阿弥陀仏」と唱えることで救済を説き、体制の宗教ではなかった。

 

・灌頂の巻の後白河院の訪問も史実ではないだろう。

 

建礼門院が本当に大原で亡くなったかも不明である。

また、後白河院建礼門院を訪れ、建礼門院が彼に説法するという出来事が実際に起こりえたとは考えにくい、という意見も出た。

 

後白河院について。

 

彼は頼朝を使って義経を討伐させるなど、策士としての印象が強い。

 

しかし一方で、単に「漂っていただけ」ではないかという見方もあり、常に勝ちそうな側につこうとしただけ、という意見も出た。

 

この点で、昭和天皇を思い出すという声もあった。

 

・女性について。

 

宮中での恋愛を描いた『源氏物語』に対して軍記物の『平家物語』では、

 

 

女性は、弱く、守られる側

 

男性は、戦い、守る側

 

として描かれる。

 

ただし、巴御前はその例外である。

 

 

・平家の急速な上昇と品性の向上?について

 

平家の中でも、堂上平氏は、時忠や清盛の妻の二位殿の系譜であり、早くから貴族化した。

 

対して、地下平氏は忠盛や清盛の系譜であり、軍人としてのし上がってきた。

 

地下平氏の堂上平氏へのジェラシーのようなものは常にあったようだ。

 

・滝口入道の出家について

 

雑仕女の横笛の叶わぬ恋。

 

 

絶望し、滝口入道が出家する。

 

雑仕女である横笛への叶わぬ恋に絶望し、滝口入道は出家する。

 

この「出家」という唯一の解決策は、『源氏物語』の浮舟の出家を思い起こさせる。

 

 

平家物語サブカル的な要素がある。

 

軍記物は中国にはすでに存在し、琵琶法師が琵琶の演奏に合わせて物語を語っていた。これは現代のラップに似た要素があり、その意味で『平家物語』にはサブカル的な側面があると言える。

 

 

 

『平家物語』 古川日出男訳 前半 読書会議事録

2024年8月の読書会では、

 

『平家物語』古川日出男訳の前半部分を読んだので

 

読書会議事録を公開する。

 

・途切れ途切れの話の集合体

 

一つの話は短い。短いお話の集合体。全体のテーマは掴みにくかった。

 

平家物語における無常をどのように捉えれば良いのか?

 

平家の栄枯盛衰から、驕れるものが衰退するという意味での無常なのだろうか?

 

無常とは、常なるものは存在しないとする仏教的な意味での無常であろう。

 

・「もののあわれ」が捉えにくい。

 

平安時代の文学、源氏物語も、しばしばもののあわれの文学と形容されることがある源氏物語を英語に翻訳したアーサー・ウェイリーは、「もののあわれ」を sympathy, romantic, lively, pity などと訳したらしい。英語単語のバリュエーションの豊富さを見ても、もののあわれのつかみどころのなさを伺いしることができる。

 

欧米人の場合、個が日本人よりも強い。つまり、主体と客体が分かれているため、主体が感じる美であるのかもしれない。

 

それに対して、日本人は個が集団の中に埋没しているため、もののあわれにはどこか他律的な部分があるのではないか。

 

 

これらのコメントに対し、日本人の場合、主体と客体が分離していない。

 

 

日本人のいう「もののあわれ」を考える場合、自然と同化する点が大きいのではないかという意見が出た。

 

 

北欧でも、プロテスタントの宗教が入ってくる以前は自然と一体となった文化があったようだ。

 

また、日本人は「もののあわれ」という曖昧ではっきりしない文化があるが、自分の都合のよい解釈につながることある点を憂慮すべきではないか。

 

 

 

 

 

・清盛が悪役として登場するのが印象的だった。

 

大河ドラマ平清盛』では、清盛は最初、善人として登場する。どのようにして彼が悪人になったのか、その人格形成が描かれていた。

 

一方、『平家物語』では、清盛は悪者として登場する。

 

 

・琵琶の演奏と共に語られるストーリー

 

 

琵琶の演奏と共に語られるストーリーには、言葉の中にリズムがある。口承で伝える物語であるため、読んで伝える文学作品よりも、キャラクター造形が単純化されているのかもしれない(清盛=悪人、重盛=善人など)。

 

・前書きによると、『平家物語』は多くの人が継ぎ接ぎして作り上げたストーリー。

 

 

様々な人々が継ぎ足していくうちに、分厚く長い物語になった。

 

 

平家物語』が完成したのは、1200年以降である。実際の出来事が起きてから100〜200年後に成立した。

 

 

徒然草』によると、信濃前司行長が『平家物語』の作者とされている。

 

 

様々な平家に関する言い伝えがあり、それをまとめていったのが、行長なのではないか。

 

琵琶の演奏と共に口伝で伝えるスタイルなのは、もともとが言い伝えの集合体であったからではないか。

 

音楽もリズムや大事な作品。

 

 

・平家の隆盛と衰退は前代未聞なほどに大きな変化だったのではないか。

 

武士として殿上人となり、さらに要職の半分以上が平家となった。娘を天皇中宮にもしている。

 

さらに、大きな成功をおさめた平家が、急速に没落していく様が描かれている。

 

このプラスからマイナスへの転落ぶりも凄まじい。

 

当時は大きな変化の少ない世の中であったろうから、これほどの変化もなかなか見られようもない。

 

また、これほどの変化があっても、日本は王朝の交代はなく、天皇制は維持されたことも興味深い。

 

 

これに対して、天皇は絶対善であり、天皇に悪は存在しないとされる。これが色々と問題を難しくしているように思えるとの意見があった。

 

また平清盛の隆盛に関しては、平治の乱において、二条天皇後白河上皇の対立を調停できたのが清盛だけだったのではないか、との意見が出た。

 

 

・p107の謀反を起こした成親への死刑を重盛が止めようする場面が印象的

 

P107の記述によると、平安時代末期の日本では、死刑が実施されるようになったのはつい最近のことらしい。

 

嵯峨天皇の時代から、約300年間にわたり、死刑は実施されていかったと書かれている

 

死刑を行えば、国内で謀反が絶えなくなると、清盛の息子の重盛は語っている。現代における死刑廃止論の論拠としても同様のことが言われることがあるようだ。

 

また、この時代の世界観は仏教的な世界観であり、仏教的な世界観とは因果応報である。

 

人に危害を加えたから、平家に災いが降りかかると考えて、死刑を止めようとしたのではないか。

 

この時代は家(いえ)の問題も重大である。家の継続こそが、善であった時代であるから、平重盛は家に将来災いを呼ぶかもしれない死刑を止めようとしたのではないか。

 

 

・清盛の嫡男の重盛が善人としてかかれている。

 

清盛は革命家で因習にとらわれない。

 

対して、重盛は保守的であった。

 

実際の史実を鑑みると、清盛と重盛の間に、ここまで対照的な行動様式の差異はなかったと思われる。

 

・4つの勢力が存在する。

 

天皇

 

貴族

 

僧侶

 

武士

 

 

・当時の武士の実態からみれば平家物語全体が実態からはかけ離れたストーリーなのでは?

 

 

鎌倉時代の武士は、仁義なき世界の暴力団に近かったようだ。

 

 

平家物語では、あるべき武士の行動様式を後世の人がつくり、それに合わせて物語を作ったのではないか?

 

天皇院政について

 

院政は10歳にも満たない幼い天皇と引退した天皇がセット。

 

天皇は自ら直接、公地や荘園の支配をしているわけではない。

 

院政とは、天皇をやめて、自由人の立場になって、実権を振るうこと。

 

 

中国ではありえない。

 

 

天皇はたくさんの行事をやっている。

 

 

生産活動をしているわけでもないし、イデオロギーの戦いをしているわけでもないので、主な仕事が行事。

 

形式的な行事をばかりやっているという点では、現代の日本においても、形式的で中身のないことが企業や社会でも行われていると思われる。

 

日本の形式主義はこの時代でも変わらないとしたら、根が深いのではないかという意見が出た。

 

それに対して、

 

毎日、違うことを考え、違うことをやるというのは明治時代以降の人間の行動ではないか。

 

毎日、同じことをやり続けるというのはある意味ではすごいこと。例えば、毎日、同じことをやり続けた大工さんの匠などは、毎日、違うことをやっていては辿り着けない境地かもしれない。

 

経済成長的に考えてしまうと、形式的なものに無意味さを感じてしまうのではないだろうか。

 

連続性(形式的)と変化(成長的)をバランスさせることが大事なのかもしれない。

 

また、当時は貨幣経済ではなかった。

 

行事がやたらと多いのは貨幣経済が存在していないからではないだろうか。

 

沖縄では、色々な儀式が残っており、人生の多くの時間が儀式に使われている。

 

気候変動で気候条件が変化しているのにも関わらず、旧暦の農業伝統に基づいて農業が行われたりしている。

 

また、違う観点から考えると、ウィルスに対する理解などもない世界観では、天皇の行事が重要になってくるという意見も出た。

 

・清盛の死後の評価の好転について

 

悪人として登場した清盛だが、死後は、その善行が評価される場面も出てくる。

 

日本人は死者に対して優しいという意見が出た。

 

 

死んだら禊も終わる、と言う。

 

 

左遷先で亡くなった菅原道真(845-903)の怨霊が、大変恐れられたのもあるかもしれない。

 

 

 

対して、中国は対照的だ。

 

中国人は死者に厳しい。

 

墓から引きずりだして、鞭を打ったりする。

 

ちなみに、革命児の清盛らしく、死に際も普通ではない、非常識的だ。

 

・文覚について

 

頼朝へ平家討伐を焚き付け、その正当性も付与した重要人物が文覚だ。

 

 

文覚は仏教界の革命児で、システムの外の人間であるのではないか、という意見が出た。

 

 

文覚という人が、頼朝が挙兵するための宗教的なバックアップを与えたるために出てきたのでは、という意見に対して、

 

頼朝の宗教的バックグラウンドは、八幡神伊豆山権現、箱根権現であり、文覚と頼朝の宗教的親和性は、通説としてあまり聞かない、という見解が出された。

 

 

『論語』齋藤孝訳 ちくま文庫版 読書会議事録

2024年7月の読書会では、

 

『論語』齋藤孝訳ちくま文庫版を読んだので

 

読書会議事録を公開する。

 

 

 ・日本社会の論語受容、江戸以降に本格化。

 儒教徳川家康時代、林羅山や藤原惺窩により政治体制と結びついていく。

 

 

江戸時代以前の時代は、論語はそこまで読まれていなかったかもしれない。

 

 

 江戸以降は、朱子学として儒教思想が積極的に日本社会に取り入れられた。

 

 

・中国社会を規定している儒教道徳

中国とビジネス経験が豊富な参加者から、社会主義の論理などよりも、儒教倫理が中国社会を規定しているとの意見が出た。

 

 

『忠』とは王に対する忠誠の意味。王の権力が全てを決めるということにつながる。

 

 

中国は社会主義的な文脈はあるとは思うが、結局、会社のトップの人と話をしなければ何も決まらなかった。

 

 

社会主義よりも、儒教の影響が強い国という印象を持った。

 

 

・親を敬う『孝』は必ずしも賛成できない。

 論語から書かれたのは2500年ほど前の世界であるが、古代でも現代でもダメな親は当然いる。

 

 

例えば、現代では親の子供に対するネグレクトの問題ある。

 

 

 一概に、親を敬うのが良いと言えないのではないだろうか。

 

 

 結局、論語の論理とは、君子に絶対的に従いなさいという意味ではないか。

 

 

 

 

・子は怪力乱神を語らず(p143)、について。

『子は怪力乱神を語らず』とは、超常現象的なことを孔子は語らなかったという意味である。

 

 

 中国のもっている現実主義を見て取れる。

 

 超越的なものをあえて語らないからこそ、王が全てになってしまう。

 

 

 王を頂点としたカースト制の中で全てが語られる。

 

 

 

・『天』という概念も重要 怪力乱神を語らず、という主張がある一方で、超越論的な意味もあるであろう『天』という概念が出てくる。

しばしば上手くいかない状況の原因が天が味方しなかったからであると語られる。

 

 

 

 ・副読本としての井上靖の小説『孔子』や高橋源一郎訳の『論語』などが紹介された。

小説の『孔子』では、戦国時代の乱世を生きた孔子の放浪する姿が描かれている。

 

 

高橋源一郎訳の『論語』は、今回読書会で扱った齋藤孝訳と違った味わいがあったようだ。

 

 

例えば、p78の、『徳は孤ならず、必ず隣り有り』では、 齋藤孝訳では、徳はばらばらに孤立しているのでないく、一つの徳を身につければ隣りの徳もついてくると訳されている。つまり、一つの徳と他の徳は関連があるから、一つの徳を身につければ他の徳も身についていくと訳されている。

 

 

 対して、 高橋源一郎訳では、徳のある人間は孤立しない、と訳されている。

 

 

 この翻訳の相違は、 漢文の素養があり、当時の歴史背景がある人間読んでも(訳しても)、その解釈は多様であることを示唆している。

 

 

 

孔子は過去の理想に依拠している。

 孔子は殷の時代の、3人の名君を理想としている。

 

 

 そもそも殷の時代にそのような名君が本当に実在したのかもわからない。

 

 

 孔子は過去に存在したとされる理想的な王のイメージに囚われている。

 

 

つまり過去に囚われて、過去を賛美する傾向がある。

 

 

 P399では、 孔子が、昔の人々は偏った性質である、狂・矜・愚があっても、決して大きく道を外れることがなかったと語っている。

 

 

 ・訳者の齋藤孝氏が言うように、『論語』は現代社会において、精神的な核、たりえるだろうか?

 この質問に対して、論語である必要はない、という意見が出た。 君主を頂点とした身分制を前提した儒教思想である必要はない。

 

 

また、論語は、女性を排除した思想でもあるからだ。

 

 

 

女性を排除した思想という意味では、最近、この読書会でも読んだ 『古事記』や『日本書紀』よりは『論語』はまだましという意見が出た。

 

 

 P171では、 「この周の初め頃が人材が盛んに出たときだが、それでも十人のうち一人は婦人だから、男子の優れた人材は九人だ」とある。

 

 

優秀な人材の10%は女性であるので、古事記日本書紀における女性の地位よりは、ましであるという意見が出た。

 

 

 

また、 論語は全体として曖昧な表現が多い。

 

 

 

 例えば、仁という概念は曖昧である。

 

 

 

曖昧であるから、管理する側からしたら、使い勝手の良い思想なのではという意見が出た。

 

 

 

 ・君主への忠誠を誓うことと、自立した個人として考えるということをどう両立できるか?

おそらく論語で一番有名なくだりは 「学びて思わざれば 則すなわち罔くらし。思ひて学ばざれば則ち殆あやうし。」 であろう。

 

 

 つまり、いくら学んでも自分の頭で考えないと物事の本質はわからない。また逆に、自分の頭で考えるだけではなく、外から学ぶことをしないと独断と偏見の思い込みの域をでることができない、ということだ。

 

 

 

ここで、孔子は、 これは自立した個人としての知性を営みを重要視していると言える。

 

 

 そもそも孔子の教えは、乱世において、君子という絶対的な存在を頂点とした身分社会を前提している。

 

 

君子に仕えるという、社会システムの中での振る舞いと、学ぶものに求められる自立した学習者としての態度はどのように両立しうるのか?という質問が出た。

 

 

 それに対して、以下のような意見が出た。

 

 

 知の問題は独自の構造性をもっている。

 

 

ある構造の中で独自な展開をするのが知ではないか。 論語の中で、知とはあくまで実践的な知のことであり、教養知ではないだろう。

 

 

 ここで言う知とは、君子につかえる者としての知であろう。

 

 

 つまり教養知ではなく、実践知なのである。

 

 

 対して、古代ギリシャの場合、 奴隷制よる生産様式という前提はあったが、 独立した知の世界というものがあった。

 

 

古代ギリシャでは教養知も重視された。

 

 

 論語が書かれた古代中国にそのようなコンテクストはなかったであろう。

 

 

現代日本ではもの考えない人が増えているのか?

 「学びて思わざれば則すなわち罔くらし。思ひて学ばざれば則ち殆あやうし。」 とあるように、論語では自分の頭で考えることの重要性が主張されている。

 

 

 対して、現代の日本では自分の頭で考えない人が増えているのではないか、という意見だ出た。

 

 

例えば、少し考えれば簡単に嘘とわかるような単純な投資な詐欺に騙された人の事例などはよく聞く。

 

 

 対して、現代人はものを考えないのではなく、 まず、考えを言える場所がない、という意見が出た。

 

 

人生の中で自分の考えを言える場所が存在したことがないし、 考えを言える場所が存在しなければ、考える力も伸びていかないだろう。

 

 

 また1960年代半ばから1970年半ばまでの日本を振り返ると、75年の連合赤軍事件が象徴的なように、 ラディカルにものを考えようとした若者たちが突き当たった壁、 浅間山荘事件のような死や混乱に帰結した一連の流れを、いまだに引きずっているのではないか。

 

 

 その意味で、 自分でものを考えられない現代人、ラディカルは思考を忌避する傾向は、日本の戦後史、60年安保や連合赤軍事件の中で形成されてきたとは言えないだろうか。

 

 

しかし、社会に貢献したいと考える若者は増えている。

 

 ESGやSDGsなどという言葉が一般的になってきた。 しかし、同時に、容易に観念化しやすい利他性というものが孕んでいる危険が存在することは、 連合赤軍事件などから理解できる。

 

 また最近は、うすっぺらな社会貢献をしたがる人が増えているとの意見も出た。 あくまでうすっぺらい社会貢献であるので深く問題に入っていこうとはしないようだ。

読書会設立にまつわる思い

古典文学読書会設立にまつわる思いを書き綴ります。

 

・人格形成と創作を出口に見据えた学習プログラムとしての読書会

人類の文化的遺産に触れる古典読書は人生の奥深さに触れるきっかけになることでしょう。古典読書が個人の人格形成を助けてくれのです。

 

私は教育の出口とは人の真似をせずに独創できる人材なること、と考えています。古典読書を通して、本物の持っている生命力に触れることでご自身の人生でオリジナルの創作を生み出す際の助けになれば幸いです。

 

・グローバルな視座の涵養

課題の古典文学作品を読了した参加者による感想を共有する会を行っています。古典作品を楽しみ、味わい、古典を読む文化を世に広めていく会です。2019年に開始しました。

 

トルコ史家の鈴木董氏の文明論に影響を受け、世界を各地域でローカルに使用されている文字により5つの文明圏(漢字世界、ラテン文字世界、キリル文字世界、梵字世界、アラビア文字世界)に分け、それぞれの地域の古典を読んでいます。広くて深い国際人として視座を涵養する狙いがあります。

 

・古典文学読書会発足の背景

知的遺産の継承を尊ぶ伝統を打ち立てることは創造的で成熟した社会の基盤たりえます。欧米社会が今でも学術の分野で世界をリードしている理由は、古代ギリシャ時代からの知的遺産の継承を重んじる伝統があるからではないでしょうか。知の体系的な継承が行われていることは共同体の強さの根源たりえます。古典を読むことで先人たちの業績に畏敬の念を持ち、古代の時代から連綿と続く人類史の中に自分自身を位置付けることで、現代社会の問題に向き合う知力を養い、ひいては不確かな未来へ向けて大胆なビジョンを打ち出す助けになるのではないしょうか。

 

『日本書紀』 福永武彦(訳)の読書会議事録

『日本書紀』 福永武彦(訳)の読書会議事録を公開する。

 

個人的なハディース(ムハンマドに関する伝承録)を読んだ時のように歴史が立ち上がる時を垣間見た感があった。

 

以下、読書会での議論の一部を要約する。

 

・読み物としては古事記の方が面白い。

 

物語としての面白さは古事記の方が上だという意見が出た。

 

神々のスキャンダラスな話も古事記ほどは詳しく書かれていない。

 

 

 

・別伝の存在が興味深い。

 

本文に加えて、別伝も収録されている。例えば、神々の話について複数の物語が収録されている。

 

聖書には別伝はない。

 

 

コーランに別伝はない。

 

 

そもそも神々のストーリーに別伝が存在してしまえることが不思議である。

 

 

日本書紀人皇の部は、中国史史記に準じている。

 

 

・この訳は全訳ではないのだが、訳者の福永武彦はどのようして本書収録箇所を決めたのか?

 

 

今回の福永武彦訳での収録箇所はどのように決まっているのか?

 

例えば、なぜ大化改新で有名な天智天皇で終わっているのか?

 

なぜ仁徳天皇雄略天皇の箇所のヴォリュームが多いのか?

 

仁徳天皇は多くの子供を残し、雄略天皇は戦争をした。

 

 

もしかしたら集録されている歌と何か関係があるのかもしれない。

 

 

福永武彦がセレクトしたストーリーに何か傾向があると思われる。

 

 

・女性は男性よりも劣位の存在して描かれている。

 

有名なイザナギイザナミの婚姻と国生みの物語でも、

 

女神のイザナミの方から話したので、うまくいかなったという話に象徴的あるが、

 

女性が先にしゃべったからうまくいかなかった、

 

 

女性だからダメだったという話が散見される。

 

女性蔑視の視点が散見されるという意見が出た。

 

 

女性天皇が古代日本の基盤をつくったのではないか。

 

 

仏教を導入した推古天皇

 

 

大化改新を推進した推進し、朝鮮半島にも出兵した皇極天皇

 

 

律令国家の基礎を築いた持統天皇など、

 

 

女性の天皇によって古代日本の基盤が形作られたのではないか。

 

 

・関東の地名について

 

先月の古事記の会でも関東の地名があまり出てこないという話が話題に出た。

 

日本書紀古事記から8年後に世に出されたとされているが、古事記よりは関東の地名が出てくる。

 

この8年の間に関東の地名が増えたのか?

 

当時は、今で言う関東地方はまだ日本ではなかったであろう。

 

関東の地方が日本に併合されていくのは800年頃の坂上田村麻呂の遠征を経てからであり、

 

本格的に関東と関西の東西二元体制は、鎌倉幕府以降であろう。

 

 

疫病などを抑えるために全国に国分寺が建てられたのは740年代であり、771年に道鏡が流刑されたのは現在の栃木であったのすでに僻地として栃木のあたりは認識されていたようだ。

 

 

・当時は現代よりも血筋の重要性は高かった。

 

当時は、個人の性格などというものはなかったのではないか?

 

性格よりも血筋が人間を規定する。

 

そもそも個人というものがいつ誕生したかということが問題。

 

フランス革命アメリカ独立革命を経て、個人が誕生したのではないか?

 

以前は、人間は共同体の中に埋め込まれていた。

 

ルネサンスなどを経て、個人の萌芽が生まれたのかもしれない。