2026年6月の読書会では三島由紀夫の『金閣寺』を扱った。読書会の議事録を公開する。
・金閣寺を放火する主人公、溝口青年の人物造形
吃音にコンプレックスを抱く住職の息子。父と母との関係にしこりあり。他者や社会と隔たりがある。成長過程の中で、心の拠り所がなかった。信頼できる人もいなかった。それを見つけられなかった。そして、悪友の柏木のほうによっていく。
・柏木は女性の目から見て魅力的だと思うか?
足に障害を持つ柏木は、女性から見て魅力的なのであろうか。
柏木は自分の障害を利用するかのようにして、女性の心の中に入っていく。
悩んでいる女性の心の中に入っていくのが得意なのではないか。
一方で、柏木も登場する女性たちも、実際の女性と言うよりも、何か三島由紀夫の精神論の中で作り出した概念を象徴させているに過ぎないのではないか、と言う意見も出た。その意味で、実際の人間に近いと言うよりも、小説の中に登場する道具に近いと言うような印象を持った、と言う意見もあった。
・実際に金閣寺放火事件が存在した
三島由紀夫の小説は実際にあった金閣寺放火事件の取材を経て書かれている。実際、三島由紀夫の小説は完全なるフィクションと言うよりも実際にあった出来事をベースに作った作品が多い。他方で設定から完全に想像力だけで作り上げた『鏡子の家』のような作品は、高い評価を得られていない。その意味で、三島由紀夫は想像力には欠けるところがあったのではないか。
・三島由紀夫の女嫌いが見て取れる
この作品に出てくる女性を総じて良く書かれていない。
三島由紀夫の女嫌いが見て取れるのではないか。
・男性の登場人物の中では、特に柏木を三島由紀は書きたかったのではないか
主人公の溝口とその悪友である柏木が対照的に書かれている。
溝口は吃音があり、それがコンプレックスとなり、友人関係や恋人関係を作ることができない。
対して、柏木は、足に生まれつき障害があるが、その障害を利用して友人関係や恋人関係を作っていく。
また、鶴川と柏木と溝口の三角関係も注目に値する。
男性登場人物3人は三角関係になっている事を留意するべきだ。
また、溝口と柏木の関係は、まるで三島由紀夫と太宰治の関係を映し出しているようにも思える。
太宰治は女にとてもモテたが、三島由紀夫は女にモテなかった。
もちろん、三島由紀夫は同性愛者であったこともあろうが、太宰治の方が女性にモテたイメージがある。
・尺八、お花、音楽
小説の中で出てくる芸術として、尺八、お花、音楽などがある。
共通しているのは、どれも枯れて残らないもの。
金閣と共に滅びることを望んだ溝口らしい時間芸術ばかりだ。
また、尺八に関して言うと、溝口は吃音があり、喋ろうとすると吃ってしまう。
自分が言いたいことがあった時も吃音により声は遅れてしまう。
笛を吹くことによって、音楽に感情をのせることで、最後は感情と音が一致していった。尺八はそのように解釈できる。
・戦乱と不安が美を富ますと言う考えがある。
京都は応仁の乱以来、激しい戦乱を経験していない
戦乱や恐怖がないと、美が美として存在しないという考え方が三島の中にはあったのではないか。
・小説の中で金閣寺の美しさは、いろいろな観点から語られている
金閣寺の美しさの描写に一貫性があるわけではない。
戦争で金閣寺が空襲により灰になることを想像し悲劇的な美しさを増したという描写があるかと思えば、室町時代から500年以上にわたって続いているその永遠性や一回性に美しさを求める描写もある。
・人間が何に価値を求めるか。
古代ギリシャ的に言えば、真、善、美の3つは、価値あるものとして考えられてきた。
真とは、真理のことであり、学問、サイエンスの領域である。
善とは、政治の文脈などで出てくる価値であろうが、非常に定義が難しい。ある意味では、トランプもプーチンも善を求めて戦争に至ったとも言える。伝統的には宗教の領域とも言える。
美とは、これ、また難しい概念である。実は、救いは美にあったりもする。社会の中で挫折した人間は、美に救いを求めていくのではないか。成功者が美に行くと言うよりも、挫折したからこそ美に引かれていくと言う側面があると思う。
三島は、美が美であることに耐えられなくなったのではないか。
美は、真であり、善である必要があると思い始めると厄介なことになる。
・三島由紀夫の京都の描写が秀逸
京都出身の参加者から、三島由紀夫の京都の描写が大変優れており、情景が浮かんでくるとのコメントがあった。しかし、ラストのシーンで金閣寺を放火する場面に関しては、空虚な言葉の羅列に聞こえてしまい、情景が浮かんでこなかった。
・三島由紀夫が文章芸術としての小説で目指したものとは?
この小説の主人公は、ラストのシーンで金閣寺を放火して物語は終わる。
金閣寺こそが、虚無の根源であったと言うラストの描写にもあるように、結局金閣寺が美しいものであるのは溝口、本人が感じ取った体験から来るものと言うよりも、入り口において溝口の父によって教え込まれた、他人から取り入れた考えであり、その考えが、溝口個人の主観の中で、増幅していき、美の観念に昇華していったのであろう。であるからこそ、金閣寺という対象は、内容のない虚無そのものであったというラストの描写になるのだろう。
溝口の人生の中で何よりも重要であった美しい金閣寺とは、自分の勝手な思い込みの産物に過ぎないと言うことになってしまうが、これは普段我々が何かを美しいと思う時に感じる体験ベースの美とは違い、単なる洗脳のようなものだと言うオチになっています。
三島由紀夫が言いたかった事は、このようないびつな美の概念なのだろうか?
そんな事は無い。
おそらく、三島由紀夫は、文章芸術としての小説というものの、新たな地平を切り開きたかったのではないだろうか。
それは言うならば、音楽と言う芸術に関して、ベートーベンやモーツァルトを批判的に受け止めて、ドビュッシーが出てきたように、また絵の分野に関して、印象派を乗り越えて、ピカソが出てきたように、演劇の分野にモリエールやラシーヌが出てきた様に、新しい文章芸術の地平を三島由紀夫を作ろうとしたのではないか。
それは言うならば、稀に見る語彙力と描写力に裏打ちされた美しい文章で読むものを魅了する美しい小説と言う芸術の地平を切り開くと言うことを目的として小説を書いたのではないか。
であるが故に、三島由紀夫が作り出したかった文章芸術における美とは、金閣寺の主人公の溝口が、人生の中で悩み、自分の主観の中で勝手に作り上げたいびつな形の美と言うよりも、そのストーリー全体を奏でる言葉の一つ一つの中にある描写の美しさあったり、読んでいる人が、思わず美しいと、思わずにはいられない美しい言葉の配列などにあるのではないか。三島由紀夫は目的論的にこのように意図して文章芸術の新しい地平を切り開いた節があり、これは三島由紀夫にしかできなかった芸当だろう。