古典文学読書会のブログ

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『千夜一夜物語』バートン版 第1巻 大場正史訳の読書会議事録

 

千夜一夜物語』バートン版 第1巻の読書会での議論の一部を要約した。

 

・近代以前にできた作品

この物語は近代以前のもの。個人の内面世界を描くことはしない。個人を書くのではなく、話がどんどんどんどん展開してく。落語などの芸の世界に通じるものがある。現代風に言えば、『千夜一夜物語』はラップ。

 

そもそも近代小説の枠組みができたのはゲーテ(1749-1832)の『若きウェルテルの悩み』(1774)以降ではないだろうか。

 

ゲーテの『ファウスト』からは近代的な部分と前近代的な部分の両方が読み取れる。

 

・翻訳のもつ問題について

翻訳者バートンという人物の色が色濃くでた翻訳であると考えられる(『名誉で読む世界史120』山川出版や『ハリウッド100年のアラブ』村上祐由見子、朝日新聞社などを参照)。

 

バートンは近代ヨーロッパを席巻していた「個人主義」「理性」「キリスト教」に反感を持っていただろう。

 

バートン版の序文を引用する。

 

「しかし、仕事を始めるか始めないうちに、〈君子〉という、あの、あらゆる不浄にみちみちた白塗りの墓がわたしたちに反対して立ち上がった。(注釈によると、この白塗りの墓とは、マタイ伝から出た言葉で、偽善者に意味に用いれられるようだ。)〈礼節〉なるものが黄色い、やかましい声を立てて、わたしたちをののしった。そのため、腰の弱い仲間は落伍していった。けれども、この種の機関はかつても必要であったし、今日もなお、必要とされているのである。

 

理性によって本能をおおいかくしていない、アフリカ、アメリカ、オーストラリアの奥地のあらゆる野蛮な種族のあいだでは、いわゆる〈一人前の男にする〉儀式が行われている、、、、。」

千夜一夜物語、バートン版、大場正史訳、p25-6』

 

と、ある。

 

インドや中東を放浪し、アナログの実体験をベースに思想形成をしてきたバートンからしたら西洋近代は抽象的で偽善的な世界と見えても不思議はない。

 

バートンは

キリスト教」「理性」「個人主義」をベースとした近代社会を、偽善的なものとして捉えていただろう。

 

対して、殺人やセックスを剥き出しの作品を西洋文明に投げつけたのではないだろうか。

 

坂口安吾の文学にみられるような『生の世界』への希求という問題意識をバートンは持っていたのではないだろうか。

 

 

バートンは大英帝国のコンロールが及ばない辺境の領事を転々した。本国の大英帝国には思う所も多かったようだ。

 

ちなみに、

『名著で読む世界史120』のp137によると、バートンらの翻訳は原典にはない官能的な表現を意図的に追加するなどの問題点が指摘されているようだ。同著によると、オリエンタリズムによって脚色された翻訳は、「好色にして残虐」という偏った中東観の源泉ともなり、いまだにその影響は続いている、とある。

 

参加者からは、バートンはビクトリア朝で支配的であった価値観に批判的であったのにもかかわらず、本文の注を見ると、バートン自身への東洋への偏見が露呈しており、バートン自身もビクトリア朝的な価値観からは自由ではなかった、という鋭い意見も出た。

 

今回『千夜一夜物語』を読む際の特有の難しさがここにあると感じた。古典作品に敬意をもって読むことは前提として大事な構えである。翻訳批判に注力しすぎずに、古典を古典として読むことは大事な構えである。しかし、こと『千夜一夜物語』のしかも最も人口に膾炙していると言われるバートン版の翻訳を読むをことは、半ばバートンに味付けされた作品を読むことにならざるえない。もっと言えば、フランス人の東洋学者のガランが翻訳にした際にも、有名なアラジンやアリババの話は、オリジナルの写本がに不明であり(現在でも不明)、それらは後から付け加えられた物語だと言われている。

 

テキストを尊重して、極力当時の社会的文脈にも配慮しながら読むのが、読書の定石である。しかし『千夜一夜物語』に関しては、訳者の意図や、オリジナルにはなかった物語の挿入などを考えながら読まざる得ない側面が多少なりとも出てきてしまう。今までこの会で扱った古典とは少し違った事情である。

 

 

 

・殺人が頻発することについて

物語としての誇張は考えられるにしても、当時は死というものが近くにあったのであろう。死後の救いを求めることは、当時はいわば普通の感覚であっただろう。つまり現世の生に囚われていないとも言える。

近代社会に生きる読者としては、現実味のない面白いお話という捉え方に終始した。逆に言うと、現実として捉えるのが難しかった。

 

イスラームでは死後に永遠の世界がある。日本文化には「永遠」が存在しない。だから「わび」「さび」が存在するのではないだろうか。

 

・なぜ不具の人が出てくるのか?

トルコなどの遊牧民族では、片目が潰れていると王位継承権がなくなるらしい。対して、片目の人間に霊的な力が宿るという話もあるらしい。不具になるがゆえに人を惹きつける要素もあるのではないだろうか?『千夜一夜物語』の第1巻に出てくる片目の托鉢僧の話があがった。日本文化では、能の逆髪の例なども話題にあがった。

 

・誠実だと思った話

不倫関係あった黒人との不倫がバレた後に黒人が不具にされてしまう。しかし女はそれでも愛し続ける。この女は誠実だという感想があがった。

 

 

半年ほど前に

コーラン』から始めてここまで来てみると一つの文化世界が自分の中で立ち上がった感があり感慨深い。