なぜ古典を読むのか?
前回の投稿では、古典読書を通して著者の魂に触れること、著者の生命力に触れることで豊かな感性を養い、耕された情緒こそがが人類の恒久平和の土台になるのではないかと書いた。
ここではまた違った観点から古典の重要さを語ってみたいと思う。
学習効率という観点から見ても古典読書は有益だと思う。
ものごとは積み上げ式に累積した時に大きな価値を生み出すものだ。
そのためには今の学習が累積的に積み上がっていく必要がある。
累積が発生するためには学習したことを将来に渡って記憶している必要がある。
古典は記憶に残りやすく、累積可能性が相対的に高い情報のインプットと言える。
例えば、
私は読書が趣味で家には数千冊の蔵書があるが、
本棚を掃除していると自分がいかに読んだ本の内容を忘れているかということに愕然とする。
家に本がたくさんあってもほとんど内容を忘れてしまっていることに驚く。
面白いことに人間とは愚かなもので、
”人は忘れてしまう生き物だ”、ということを読書をしている渦中は気づかない。
通常読書は短期記憶を使って行われるのでこのようなことが起こる。
1冊の本を読み切るとは短期記憶に依拠した行為と言える。
短期記憶が長期記憶につながることは通常起こらない。
しかし、ここで人間は錯覚を起こす。
アクティブに読書をしている時は短期記憶の内容が将来に渡って保持されると勝手に人は思い込んでいる節がある。
そして読後から数年後のある日に、本棚の掃除でもしている時にいかに読んだ本の内容を忘れているかという事実に打ちのめされる。
世の中一般で言う復習すること、つまり、
自分の記憶を再び思い出すことをしない限り短期記憶から長期記憶への以降は起きにくい。
しかし、不思議なことに古典は相対的に忘れにくい。
つまり古典をから得た情報は自分の中に残りやすく累積されやすい。
古典の中には読むのに努力を要する難解な作品があるのは事実だ。
しかし、一回読んだ古典は自分の中に定着しやすく、比較的忘れにくい。
古典の内容は忘却しにくいのであろうか?
人間の記憶は思い出す回数が多いほど長期記憶に定着しやすい。
古典は世の中の情報のネットワークのハブになっている。
例えば、ドストエフスキーの作品にインスパイヤされてつくられた映画、文学、演劇などは今日も日々生み出され続けている。
新しく生み出されるゲシュタルト(体系化された情報)の源泉にドストエフスキーの作品がある。
ドストエフスキーの作品に精通している人間であればそれが透けて見える。
一旦、ドストエフスキーを作品を読むと、世の中のいろいろなものにドストエフスキーの痕跡を見ることになる。
そうすると自然とドストエフスキーの作品の内容は忘れにくくなり、その情報は累積的に大きくなっていく。
ドストエフスキーを読んだことがある読者の数の絶対数も多く、人生のどこかでドストエフスキーを読んだ仲間同士の会話が成立する可能性もある。
また、古典作品の読書は深い感動をもたらすことが多い。
例えば、ドストエフスキーの作品を読むと、ゾッとするほど鋭い人間観察の描写に遭遇してまうことがある。
深い衝撃、感動を覚える。
感動したものは忘れにくく、記憶に累積されやすくなる。
結果、
ドストエフスキーの小説から得られた情報は長期記憶に定着しやすくなる。
結果、情報が長期に渡り累積されていく。
読書の現在価値と将来価値という観点からすると、
古典は、読書の将来価値がとても高い。
古典の上にどんどん新しい情報を累積していけるのでその価値は日に日に高まっていってしまう。
読んでいる渦中(現在価値)はその将来価値の高さに気がつきにくいと思う。
古典は学習効率の観点、特に、その情報の累積可能性の高さに注目するべきではないだろうか。
物事は積み上げ式になった時に大きな成果を生むわけであるから。
古典読書は学習効率の観点かも推奨できる。
なぜなら
⑴ 古典は情報のネットワークのハブになっているから
⑵ 古典は読者に深い感動をもたらすものが多いから
と、私は考える。