参与研究の強みが存分に発揮された作品と言える。
ビックデータ時代の今日、アンケートに基づく統計調査は社会科学の上等手段だろう。
しかし、当たり前にすぎることはしばしばアンケートには書かれない。
つまりビックデータにのってこない情報がある。
言語化されていない部分の人間の営みを知る上で参与研究は優れた研究方法だ。
そして著者の小川さやか氏はタンザニアで長年行商人のフィールドワークをしてきた参与研究の達人だ。
面白いと思った論点を列挙する。
・信用は取引コストを劇的に下げる。
信用が欠如していると掛け取引の費用が増す。
簿記の言葉で言えば貸倒引当金が増える。
また、取引相手の裏切りを想定すると、保険や代替的な取引相手も事前に確保しておく必要がある。
売り買いのみならず、信用が不在であるとあらゆる協業も難しくなる。
協業のコストも高くなる。
アマゾンなどのプラットフォーマーは「信用の欠如」の問題に一定の解決策を提示する形で拡大してきた。
例えば、アマゾンでは中古本の販売者に対する評価が可視化されている。
重慶大厦では面白いことに取引相手を信用しないからこそ、取引コストがゼロになっているという逆説が存在する。
もちろんその前提には彼らの生きている環境がとても不安定であるからという事実が存在する。
今日の成功者も明日になれば強制送還の憂き目をみる可能性もあるのだ。
しかし、誰も信用できないからこそ、みんなをゆるく信用する。
そのゆるい信用の連帯がなんとも絶妙な商取引の地盤を作り出しているし、かつまた、セーフティネットにもなっている。
・強固な互酬の論理にみられる暴力性が香港のタンザニア人コミュニティには見られない。
ギフト、贈与はドイツ語で毒という意味を持つ。
しばしば贈与は相手の行動を制限する。
それが明確に法体系に組み込まれているのが近代社会の商取引や債権者と債務者の関係であろう。
このあたりが香港のタンザニア人のコミュティの間では曖昧である。
互助組織のタンザニア香港協会というものが存在する。
その設立メンバーの一人が死亡に著者は遭遇する。
協会全体で遺体を祖国に搬送にするに寄附を募った。
その際に寄付金の額は全員が定額を拠出する必要はなかった。
もっと言えば、寄附を全くしなくてもメンバーの権利も失われない。
とてもゆるい助けないのネットワークと言える。
背景としては以下の点が挙げられている。
⑴ タンザニア人間にある互いの事情は完全にはわからないという認識。色々な事情によりたまたまその時に寄附できるだけのお金がなかっただけかもしれないという認識を持っている。
⑵個々の実践・行動の帰結を他者の人物評価に結びつけて語らない。いわゆる結果と自己責任を結びつけて考えることを明確にはしないようだ。
⑶移動を常としているメンバーも多く、成員間の厳密な互酬性を計算すること自体が困難。
だからと言って、全員が助け合うことを辞めてしまうわけでもない。
助けれる人が、『ついで』の余裕の中で困っている人を助ける。
この『ついで』というのも大事なポイントだ。
たまたまスーツケースに少し空きがあるから、友人が買い付けた中古携帯を香港からタンザニアまで運んであげるなど、何かの『ついで』に仲間を助けることをしている。
結果、ゆるい助けないのネットワークができている。
仲間を助けたことのリターンはどこかで予期しない形にせよ、自分に返ってくるという漠然した期待は持っているようだ。
また、近代人の傾向として
強固に互酬性、返報性の論理にとらわれると、物事の計算可能性を重視するようになり『ついで』のように偶然に起こることを軽視するようになるかもしれないと思った。
・まず楽しむことが第一にあり、商売をその手段として使っている。ここに人間を道具としない経済のヒントがあると考えた。
商取引はあくまで道具であり、遊ぶことの方がまずは先にある。いや、どっちが重要というわけではないが、遊ぶことも重要という構えに貫かれている。
モノカルチャーで単色のお金という価値観に毒されてない。
お金はあくまで手段。
だけど名目的にはあくまでお金も儲け第一主義の人たちの話。これが矛盾するようで矛盾しない。
ICT(Information and Comunication Techology)のビジネスへの応用は、
この手のイノベーションに、レイティング(出品者などを評価すること)はつきものだ。
しかし、レイティングを内面化(internalize: 世の中に流布している価値観を自分の価値基準として無意識的に信じ込むこと)してはいけない。
友達や恋人を選ぶのにSNSのレイティングを参考にしないではないか。
マーケットを内面化する事による貧困を考えることによって、経済の未来、そして人類の未来を思い描くことができるのかもしれない。
価値尺度が単一化することによってもたらされる貧困。
『チョンキンマンションのボスは知っている 』には
そうではない世界を思い描くヒントが詰まっている。
あくまでも表向きは、金儲けが目的であって、だましだまされることがあるかもしれない香港のタンザニア人コミュニティ。
不法滞在者やすねに傷がある元犯罪者(もしくは現在進行形で犯罪者)かもしれない。だから互いの内情には深く踏み込まないことが優しさにもなっている。
そこでは金儲けがあくまで目的なので、お互いが近づきす、かといって離れすぎない距離感で協力する、協業する。
香港のタンザニア人たちは不安定な世界を生きている。
明日何が起こるかなんて事はわからない。
明日、不法滞在がバレて強制送還の憂き目を見るかもしれない。
不安定で先が見えにく状況下では、一つの分野に特化した専門家になるよりもその場その場での即興的な意思決定の余地の大きいジェネラリストになったほうがきっとリスクも少ない。
そんなジェネラリストが、何かのついでに何かをする。
機会は流動的で突然やってくる。
例えば、香港とタンザニアを行き来する天然石商人のスーツケースに空きがあれば、ついでに香港で仕入れたスマホを運んでもらい、スマホの輸出ビジネスする。
考えると、今日の資本主義と言うのは非常に専門分化されてしまっている。
今日の延長線上に明日があると言う前提に立っているからサプライチェーンの一部分にだけ特化した(営業が専門の人。商品の買付が専門の人。製造プロセスの一部分が専門の人…)専門性を磨くが合理的になる。安定した生産プロセスがあるから、一つの分野への専門特化も成り立つのかなと思う。
対して、明日何が起こるか分からないと思えば、やはり生産プロセス全体が崩壊する可能性までを考える必要がある。そんな不安定な世の中ではジェネラリストが良い。そして、もしかしたら専門特化しないスタンスの方がむしろ、人間的なんじゃないかとすら思った(人間本性に適合しているのではと思った)。なぜなら、ビジネスは人間による営みであり、人間自体は日々気分も変わるし、体調も変わるわけだから。
レイティング(出品者などをなど評価するシステム)が存在するシェアエコノミーでは、たくさん与えた人が多くのレーティングを得て与えることができなかった、もしくは失敗してしまった人には低いレイティングがつくと言う事は、失敗した人に対する負い目と言うものを過度に負わせてしまうことになる。
そうすると結局失敗した人を排除する仕組みになってしまう。
だけど、レイティング(評価)をしないで不確実で曖昧さを残したシステムの方が、人間を一元的な尺度で評価しないわけだから当然楽しいと言うわけだ。
それが、SNSを使って香港のタンザニア人たちが作り上げた仕組みTRUSTだ。
不確実性を包含した方がむしろ人間的なんじゃないかというわけだ。あくまで楽しむということが優先で、資本主義(確固とした私有財産制により、合理的な経営を可能にし、広範に、迅速に商品の交換する仕組み)を道具として使ってやった方が楽しいし、豊かだと思えてくる。
贈与によって確実なリターンを得ようとする思考体系。これだけお金を貸したんだ(もしくは与えのだから)から、この日までにいくらの利子を加えて確実に返してくださいと未来に対する確固たる縛りを設けることによって成り立つシステム。現代先進国で受容されているこの仕組みは、ある意味では、過去を使って、人間の未来の行動を矯正すると言う意味でとても暴力的なんだなぁと言うふうにも思えてくる。