古典文学読書会のブログ

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ワーニャ伯父さん byチェーホフ

 

チェーホフのテキストは喜劇だと考えると随分とふに落ちるところがあるように思います。

 

一見シリアスな話に見えるところが多いにあります。

 

例えば、ワーニャ伯父さんがピストルで発砲する殺人未遂シーンです。

 

しかし1歩引いてみると喜劇に見えてきます。

 

そもそも分かり得ない他者との関係があっての殺人未遂事件です。見事なまでに分かり得ない人たちばかりが出てくる。そのコミュニケーションの失敗の連鎖が喜劇タッチで描かれているのではないでしょうか。

 

またワーニャ伯父さんは一見すると反体制的でアバンギャルドな方のように見えますが実は大成迎合的なところも多いにあるのかなと私は思いました。

 

以下の引用箇所にワーニャの内含する矛盾を垣間見ることができます。

 

ワーニャは自分が尽くしてきた老教授を以下のように酷評します。

 

この酷評自体は一見、真っ当な批評のように取れます。

 

『問題は、この男、きっかり二十五年のあいだ芸術について読んだり書いたりしてきたが、芸術についちゃ何も分っちゃいなかったってことだ。25年前、写実主義だとか、自然主義だとか、なんだかんだと他人様の考えの受け売りをやってきたにすぎない。』

浦雅春訳、光文古典版、p18 

 

老教授に独自性は全くない。オリジナルな学術的貢献をするという本来学者が全うするべき責務を果たして来なかったとワーニャは批判しています。

 

この点だけを見ると、ワーニャの体制に迎合しない気鋭の知識人としての姿勢を垣間見ることができます。

 

しかし、他方で同じワーニャがこのようなことを言っています。

 

『泡と消えた人生!ぼくだって才能もあれば、頭もある、度胸だってあるんだ…。まともな人生を送っていれば、ショーペンハウエルにだって、ドストエフスキーにだってなれたんだ…』

同書、p100

 

このセリフは、映画ドライブマイカーでも引用されたのでご存知の方も多いかと思います。

 

そもそもドストエフスキーショーペンハウエルもまともな人生なんて送っていないと思います。

 

ドストエフスキーは国家反逆罪で逮捕され、処刑の寸前で恩赦され、それでもシベリアで10年近く過酷な環境で暮らし、そこで実際に殺人を犯した人や、ロシアの下層階級層(ドストエフスキー自身は今でいう中・上流階級の出身)の現実を直視するわけです。ショーペンハウエルも30歳の頃に主著となる本を出版しますが、それが認めらるのは晩年になってからで、決して順調でまともな人生であったとは言えないのではないでしょう。

 

つまり、まともな人生を歩んでないから、ドストエフスキーショーペンハウエルになれたのであって、ワーニャがあげた大家の二人に比べてると、ワーニャはとんでもない俗物ということになってしまうと思います。

 

このあたりの転倒こそがこの作品の喜劇性を表している部分とは言えないでしょうか。

 

人生の後半になって自分の人生に何の意味があるのか?と問い始めた、いわゆる中年の危機に遭遇するシーンも一見シリアルに見えるのですが、ワーニャの人生の錯綜という布石から考えると喜劇にも見えてくるわけです。