今回は『源氏物語ウェイリー版』の第2巻について、読書会を行ったので、その議事録をまとめた。
今回もペンギン社が作っている読書会用の質問から始まった。
第17帖では絵について、第25帖ではフィクションについての芸術論が論ぜれた。現代における絵やフィクションという芸術分野との関連は何だろうか?
第17帖では、レディ・アキノコムとレディ・チュウジョウ側とに別れて、それぞれが持ち寄った絵の優劣を競い合うコンテストを開催した。
単に、絵と絵の対決というよりも、物語の中に埋め込まれている絵に関する対決であった、という点に留意したい。
第1戦では、竹取物語対宇津保物語。
第2戦では、伊勢物語対小三位であった。
つまりに絵画と文学が分かれていないのだ。
最後の第3戦における源氏の絵は、源氏自身が経験した須磨流謫の物語を背景をしている。
その意味では、須磨流謫の貴種流離譚(高貴な生まれの人間が苦難をへて帰還する説話の型)の物語が、前者の竹取物語などの古典に優ったともいえる。
絵あわせにおいて、観るものの心に訴えかける源氏の絵が勝利したのは、ある意味通俗的な結末とも言える。その意味で、25帖のフィクション論の布石として絵わせでの源氏の勝利を捉えることもできるのではないか?
第25帖では、フィクションという芸術様式についての語りがある。ここは本来のストリーリーの筋からは独立している内容であり、この帖がなくても問題がないとも言えるので、逆に言えば、どうしても紫式部はこの帖を書きたかったのではないだろうか?
日本書記などの歴史書は、人生のほんの一面しか見せてくれない。しかし、フィクションの扱う範囲はそれよりも広く人生のプライヴェートな出来事も細々と見せてくれる。
単なる現実を越えるという意味で、フィクションの素晴らしさが語られる。
それは、第17帖で、須磨流謫という “現実”に即した物語で勝利したのを踏まえて、それでも、”現実”を越えるのがフィクションという形式であると主張しているとも解釈できる。
ちなみに、漢文で書かれた歴史書の日本書記を揶揄しているのは男社会を揶揄しているとも取れる。
第25帖の日本書紀と対比しての小説という部分は、翻訳者のウェイリーが原文に無い内容を加筆しているのも興味深い。
第2巻p497の冒頭と、原文を比較するとわかる。
そもそもペンギン社は欧州の出版社であるが、
西洋文学にはおいては、プルーストの『失われた時を求めて』において、小説という分野が完成したと言われているようだ。日本では源氏物語においてある意味では、小説という分野が完成していたという西洋人の認識の下で、この質問が作られたのではないか?
ちなみに、プルーストで完成した小説が解体されるのは、ジェームズ・ジョイスのようだ。
・源氏に口説かれても関係を持たなかった三人の女の共通点は?
当該の三人の女とは、
秋好中宮
玉鬘
である。
秋好中宮は伊勢の斎宮に、朝顔は賀茂の斎院になった期間があった。神道の神職にある期間はいくら源氏といえでも手はだせない。
また、秋好中宮は、六条の御息所の娘であり、源氏と関係のあった六条は、自らの死後の娘の世話を源氏に託している。このことも源氏が、一線を超えなかった要因にあるのでは?
朝顔に関しては、p248で、源氏のことは嫌いではなかったが、もし自分も源氏と関係を持てば、結果的に、他の多くの源氏と関係をもった女性と同じく、崇拝者の一人とみなされ、惨めな思いをするであろうと語っている。また、彼女は、明確に仏教徒としての意識をもっており、神道の聖職である賀茂の斎院での仕事をしてしまっことに罪の意識をもっており、最終的に仏教の聖職に身を捧げたいと思っている。明確な仏教徒意識を持ちながら、神道の聖職をすることになった数奇な運命を歩んだ人もである。
玉鬘に関して、当初は、自分の養女として引き取った手前もあるのではないか?
などの意見が出された。
・玉鬘は魅力的か?
絶世の美女なのだからそれだけでも魅力的という意見が出た一方で、玉鬘は主体性が乏しいとの意見も出た。玉鬘は、主体性が乏しいという意味で、竹取物語のかぐや姫に近いとの意見が出た。もちろん天上に行かないかぐや姫という意味だ。玉鬘には主体性が乏しいので、スケベな中年親父になりつつある源氏を表現しやすかったのではないか?