古典文学読書会のブログ

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『源氏物語 A・ウェイリー版』第1巻

今年は日本の古典を読む年した。

 

1月は、源氏物語のウィリー版の第1巻について読書会を開催した。

 

以下、議事録である。

 

大河ドラマ『光る君へ』を観ている参加者もいた。

 

以下、例会での議論の一部を要約した。

 

議論の導線として世界的な出版社であるPenguin Random Houseの源氏物語のページを参照した。

 

https://www.penguinrandomhouse.com/books/297312/the-tale-of-genji-by-murasaki-shikibu/9780143039495/readers-guide/

 

今回、ペンギン社のページから、用いた質問は以下の通りである。

 

DISCUSSION QUESTIONS

 

What do the men in the tale value in a woman?

 

How does a man gain access to a woman, and how does a woman safeguard her dignity?

 

How do the characters in the tale define personal worth? What do they admire?

 

What consequences flow from the birth of Genji’s son by his father’s Empress?

 

What are the reasons for Genji’s exile (chapter 13) and its consequences?

 

 

 

 

・当時は今とは比べ物にならない身分制社会

インド、イスラームでは今でも強固な身分制社会が存在する。

自由恋愛というのは19世紀のフランス文学などで見られるようになるが、それ以前は一般的にではなかったはず。

 

・男たちは女性のどこに魅力をみいだすか?

源氏の場合はストライクゾーンが広い。容姿の魅力の乏しい末摘花と関係を持ったり、年はとっているが色好みの源典侍と噂になるなど、ストラクゾーンが広い源氏。

 

源氏は藤壺や紫など母親に似ている女性に惹かれている。

 

 

・世界で最初の小説

それ以前の物語は基本的に歌物語であり、恋愛叙事詩であり、叙事詩であり、つまりきっちりとした『型』があり、その中に内容を詰め込んでいた。

 

源氏物語でも『歌』、つまり『型』は頻出するかが、その周辺に『歌』の内容を補足するかのごとくの登場人物の様子や心の動きなどの散文的な描写が展開している。

 

和歌 →  小説

 

という変遷をあえて提起すれば、紫式部は、和歌以外の部分をつくった、と言える。

 

・一貫して、従順な紫の上

従順すぎる紫に魅力を感じないという意見が出た。紫の気持ちを一貫して、源氏は理解しない、すれ違いが続くシーンが繰り返される。更に、進んで、ここまで従順ということは何か紫も意図があっての従順なのでは?紫、本当は悪女説も論じられた。

 

また、作者の紫式部は、平安貴族の男性たちへ批判的な眼差しもあるのでは?という意見も出た。どこか貴族男性のやりすぎ感を揶揄している節があると読めないこともない。

 

藤壺からは、尋常ではない意志の強さを感じる。

一回、源氏と関係を持って孕って以降は、一貫して源氏と関係を持っていない。気持ちがある男性と一度関係を持った後なのにも関わらず、それ以降、一貫して拒み続けることができる女性は珍しいのではないか。もちろん皇太子を守るという動機もあったとは思うが、藤壺の尋常ではない意志の強さも読み取れる。藤壺の意志の強さからは、単に皇太子を守るためという『効用』を超えた意志の強さを感じる。

 

・須磨流謫について

この須磨流しは、貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)という、説話の型の一つだろう。高貴な生まれの人間が困難を克服していく話で、ギリシャ神話のオデュッセウスの話や古事記大国主命の話などが挙げらる。

 

源氏の須磨流謫は、貴種流離譚の典型だろう。

 

ここで留意しておきたい点とは須磨に海があることだ。海は異世界の象徴であり、まさに流謫の地としてふさわしい。そこで海の神である龍神と対話したりもしている。

 

なぜ須磨の海である必要があるのか?大阪や和歌山近郊の海でなく、須磨の海である必然性は?という質問が提起されたが、明確な仮説は出なかった。

 

ちなみに、日本史において島流が一般的になるのは、もう少し後の時代である。ロジスティックの都合などにより、まだ、この時代では島流しは一般的ではなかった。