古典文学読書会のブログ

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『歎異抄』 川村湊訳 読書会議事録

2024年10月の第65回古典文学読書会では、『歎異抄』川村湊訳について話し合ったので、議事録を公開する。

 

以下、課題図書を事前に読了してきた参加者によるディスカッションである。

 

・今回の翻訳、開催弁の歎異抄について

 

広島弁の聖書を思い出した。

 

 

一神教との類似点

 

自力による救済ではなく、阿弥陀に委ねることで、道を見出すという点でキリスト教などの一神教と似ているとの意見が出た。

 

 

唯円歎異抄をまとめていったプロセスはパウロキリスト教をつくっていたプロセスと似ているという意見も出た。

 

歎異抄が日本史の表舞台に出てくるのは明治時代以降

 

明治時代に清沢満之という人が歎異抄を紹介する。

 

すると三木清服部之総といった左翼のインテリなどに受け入れられた。

 

なぜ明治時代まで表に出てこなかったのか?

 

悪人こそ救われる、人を殺しても、、、、一見すると危険思想ともとられかねない内容を歎異抄が内包していたからではないか?

 

また、お布施の額に関わらず、救われるという内容が歎異抄には書かれているが、これも当時のお寺からしたら、歎異抄を隠しておきたい理由となったのではないか。

 

 

歎異抄は戦後の民主主義の考え方に馴染む側面があったのか、

 

 

野間宏吉本隆明などに支持された。

 

 

 

親鸞浄土教における立ち位置の解釈

 

  • 法然が創始し、親鸞がそれに続き、新宗教としての礎をきづいた。親鸞こそが浄土教の主要な人物。
  • 親鸞法然の弟子ではあったが、主要な弟子ではなかった。一番弟子ではなかった。後に流刑で辺境の地である関東に長くいた。悲僧非俗のマージナルな人、かつ、周縁いた人だからこそ、異端的な思想を打ち立てることができた。

 

 

キリスト教との類似 その2

 

エスが出てきた当時のユダヤ教は官僚的で、知的な側面が強く、戒律の縛りも強かった。

 

エスはそんなユダヤ教の戒律のよる縛りを排除し、一般庶民も触れやすいように素朴に解釈し直した。

 

最も貧しい人たちに視線を送っている点は、イエスと共通する。

 

勉強しないと救われないような教えではない。

 

平等性を謳っている点で、イエスと似ているのではないか。

 

悪人正機」とはキリスト教でいう、「心貧しきものは幸いなり」という福音書の一節のことではないか。

 

 

対して、西国、京都の仏教は、国家安康のための宗教であったであろう。

 

 

・悪の問題

 

善い人間、悪い人間は、縁が決めるとある。

 

悪い行いしても、念仏を唱えれば良いというわけでもない。念仏を自分の意思で唱えることは、自力救済になってしまうので、そもそも親鸞の教えからはズレてしまう。

 

 

歎異抄では、マルキ・ド・サドドストエフスキーが書いたような「絶対悪」の問題は扱っておらず、「相対悪」の問題と扱っていると思われる。

 

 

「絶対悪」とは映画バットマンのジョーカーのような悪事のために悪を行う悪人のことだ。

 

しばしば一神教文化圏では、神の不在と結びつけて論じられる。

 

親鸞は、殺人などの行いをする人間は縁によってそうなっていると主張し、それは絶対悪というよりも、煩悩の延長戦上にある悪として、相対悪の範囲内での話であろう。

 

親鸞は、実存的なレベルでの悪については突き詰めて、考えているわけではないのでは、という意見も出た。

 

 

・他力の理解について

 

自分の意思で念仏を唱えるわけではない。

 

ある時、自然と唱えるようになる。

 

こうしたら救われるからと、自分で計りごとをして、念仏を唱えては自力救済になってしまい、「他力」にならない。

 

阿弥陀様のはからいにより、ある時、自然と念仏が口から出てくるようになる。

 

これは國分功一郎が言う所の「中動態」のことではないか?

 

自分の意思で唱える能動でもなく、

 

完全に受動でもない(声に出して念仏を唱えているのは自分)

 

その意味で、これは中動態の世界のことを言っているのでは?

 

 

 

・なぜ浄土教阿弥陀如来を受容したのか?

 

 

仏教には密教大日如来など阿弥陀如来以外にも重要な仏はある。

 

 

浄土教阿弥陀如来を中心にした教えだ。

 

 

中国の善導が阿弥陀如来を受容。

 

それを日本人の法然が受容した形だ。

 

 

仏教の伝来は基本的に中国、朝鮮経由である。

 

直にインド仏教、梵字の経典を読むことは漢文に比べれば、あまりなかったのではないか。

 

 

・信仰と倫理は違う

 

歎異抄では信仰と倫理が切り分けられている。

 

親のために供養をする、たくさん布施をする、悪行をしない、これらは倫理である。

 

歎異抄では、これら倫理的な行いと、信仰とは別であると説く。

 

倫理を信仰と切断したことが歎異抄の宗教書としての強さではないか?

 

現実問題として、正しい行いし、真っ当な努力をして、倫理的に生きても救われない人はたくさんいる。

 

倫理的に正しい生き方と救いを分けている。

 

つまり、

 

人間の行いの領域と、信仰の領域を分けた。

 

 

これが歎異抄の魅力の源泉なのではないか。