古典文学読書会のブログ

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『論語』齋藤孝訳 ちくま文庫版 読書会議事録

2024年7月の読書会では、

 

『論語』齋藤孝訳ちくま文庫版を読んだので

 

読書会議事録を公開する。

 

 

 ・日本社会の論語受容、江戸以降に本格化。

 儒教徳川家康時代、林羅山や藤原惺窩により政治体制と結びついていく。

 

 

江戸時代以前の時代は、論語はそこまで読まれていなかったかもしれない。

 

 

 江戸以降は、朱子学として儒教思想が積極的に日本社会に取り入れられた。

 

 

・中国社会を規定している儒教道徳

中国とビジネス経験が豊富な参加者から、社会主義の論理などよりも、儒教倫理が中国社会を規定しているとの意見が出た。

 

 

『忠』とは王に対する忠誠の意味。王の権力が全てを決めるということにつながる。

 

 

中国は社会主義的な文脈はあるとは思うが、結局、会社のトップの人と話をしなければ何も決まらなかった。

 

 

社会主義よりも、儒教の影響が強い国という印象を持った。

 

 

・親を敬う『孝』は必ずしも賛成できない。

 論語から書かれたのは2500年ほど前の世界であるが、古代でも現代でもダメな親は当然いる。

 

 

例えば、現代では親の子供に対するネグレクトの問題ある。

 

 

 一概に、親を敬うのが良いと言えないのではないだろうか。

 

 

 結局、論語の論理とは、君子に絶対的に従いなさいという意味ではないか。

 

 

 

 

・子は怪力乱神を語らず(p143)、について。

『子は怪力乱神を語らず』とは、超常現象的なことを孔子は語らなかったという意味である。

 

 

 中国のもっている現実主義を見て取れる。

 

 超越的なものをあえて語らないからこそ、王が全てになってしまう。

 

 

 王を頂点としたカースト制の中で全てが語られる。

 

 

 

・『天』という概念も重要 怪力乱神を語らず、という主張がある一方で、超越論的な意味もあるであろう『天』という概念が出てくる。

しばしば上手くいかない状況の原因が天が味方しなかったからであると語られる。

 

 

 

 ・副読本としての井上靖の小説『孔子』や高橋源一郎訳の『論語』などが紹介された。

小説の『孔子』では、戦国時代の乱世を生きた孔子の放浪する姿が描かれている。

 

 

高橋源一郎訳の『論語』は、今回読書会で扱った齋藤孝訳と違った味わいがあったようだ。

 

 

例えば、p78の、『徳は孤ならず、必ず隣り有り』では、 齋藤孝訳では、徳はばらばらに孤立しているのでないく、一つの徳を身につければ隣りの徳もついてくると訳されている。つまり、一つの徳と他の徳は関連があるから、一つの徳を身につければ他の徳も身についていくと訳されている。

 

 

 対して、 高橋源一郎訳では、徳のある人間は孤立しない、と訳されている。

 

 

 この翻訳の相違は、 漢文の素養があり、当時の歴史背景がある人間読んでも(訳しても)、その解釈は多様であることを示唆している。

 

 

 

孔子は過去の理想に依拠している。

 孔子は殷の時代の、3人の名君を理想としている。

 

 

 そもそも殷の時代にそのような名君が本当に実在したのかもわからない。

 

 

 孔子は過去に存在したとされる理想的な王のイメージに囚われている。

 

 

つまり過去に囚われて、過去を賛美する傾向がある。

 

 

 P399では、 孔子が、昔の人々は偏った性質である、狂・矜・愚があっても、決して大きく道を外れることがなかったと語っている。

 

 

 ・訳者の齋藤孝氏が言うように、『論語』は現代社会において、精神的な核、たりえるだろうか?

 この質問に対して、論語である必要はない、という意見が出た。 君主を頂点とした身分制を前提した儒教思想である必要はない。

 

 

また、論語は、女性を排除した思想でもあるからだ。

 

 

 

女性を排除した思想という意味では、最近、この読書会でも読んだ 『古事記』や『日本書紀』よりは『論語』はまだましという意見が出た。

 

 

 P171では、 「この周の初め頃が人材が盛んに出たときだが、それでも十人のうち一人は婦人だから、男子の優れた人材は九人だ」とある。

 

 

優秀な人材の10%は女性であるので、古事記日本書紀における女性の地位よりは、ましであるという意見が出た。

 

 

 

また、 論語は全体として曖昧な表現が多い。

 

 

 

 例えば、仁という概念は曖昧である。

 

 

 

曖昧であるから、管理する側からしたら、使い勝手の良い思想なのではという意見が出た。

 

 

 

 ・君主への忠誠を誓うことと、自立した個人として考えるということをどう両立できるか?

おそらく論語で一番有名なくだりは 「学びて思わざれば 則すなわち罔くらし。思ひて学ばざれば則ち殆あやうし。」 であろう。

 

 

 つまり、いくら学んでも自分の頭で考えないと物事の本質はわからない。また逆に、自分の頭で考えるだけではなく、外から学ぶことをしないと独断と偏見の思い込みの域をでることができない、ということだ。

 

 

 

ここで、孔子は、 これは自立した個人としての知性を営みを重要視していると言える。

 

 

 そもそも孔子の教えは、乱世において、君子という絶対的な存在を頂点とした身分社会を前提している。

 

 

君子に仕えるという、社会システムの中での振る舞いと、学ぶものに求められる自立した学習者としての態度はどのように両立しうるのか?という質問が出た。

 

 

 それに対して、以下のような意見が出た。

 

 

 知の問題は独自の構造性をもっている。

 

 

ある構造の中で独自な展開をするのが知ではないか。 論語の中で、知とはあくまで実践的な知のことであり、教養知ではないだろう。

 

 

 ここで言う知とは、君子につかえる者としての知であろう。

 

 

 つまり教養知ではなく、実践知なのである。

 

 

 対して、古代ギリシャの場合、 奴隷制よる生産様式という前提はあったが、 独立した知の世界というものがあった。

 

 

古代ギリシャでは教養知も重視された。

 

 

 論語が書かれた古代中国にそのようなコンテクストはなかったであろう。

 

 

現代日本ではもの考えない人が増えているのか?

 「学びて思わざれば則すなわち罔くらし。思ひて学ばざれば則ち殆あやうし。」 とあるように、論語では自分の頭で考えることの重要性が主張されている。

 

 

 対して、現代の日本では自分の頭で考えない人が増えているのではないか、という意見だ出た。

 

 

例えば、少し考えれば簡単に嘘とわかるような単純な投資な詐欺に騙された人の事例などはよく聞く。

 

 

 対して、現代人はものを考えないのではなく、 まず、考えを言える場所がない、という意見が出た。

 

 

人生の中で自分の考えを言える場所が存在したことがないし、 考えを言える場所が存在しなければ、考える力も伸びていかないだろう。

 

 

 また1960年代半ばから1970年半ばまでの日本を振り返ると、75年の連合赤軍事件が象徴的なように、 ラディカルにものを考えようとした若者たちが突き当たった壁、 浅間山荘事件のような死や混乱に帰結した一連の流れを、いまだに引きずっているのではないか。

 

 

 その意味で、 自分でものを考えられない現代人、ラディカルは思考を忌避する傾向は、日本の戦後史、60年安保や連合赤軍事件の中で形成されてきたとは言えないだろうか。

 

 

しかし、社会に貢献したいと考える若者は増えている。

 

 ESGやSDGsなどという言葉が一般的になってきた。 しかし、同時に、容易に観念化しやすい利他性というものが孕んでいる危険が存在することは、 連合赤軍事件などから理解できる。

 

 また最近は、うすっぺらな社会貢献をしたがる人が増えているとの意見も出た。 あくまでうすっぺらい社会貢献であるので深く問題に入っていこうとはしないようだ。