2024年8月の読書会では、
『平家物語』古川日出男訳の前半部分を読んだので
読書会議事録を公開する。
・途切れ途切れの話の集合体
一つの話は短い。短いお話の集合体。全体のテーマは掴みにくかった。
・平家物語における無常をどのように捉えれば良いのか?
平家の栄枯盛衰から、驕れるものが衰退するという意味での無常なのだろうか?
無常とは、常なるものは存在しないとする仏教的な意味での無常であろう。
・「もののあわれ」が捉えにくい。
平安時代の文学、源氏物語も、しばしばもののあわれの文学と形容されることがある源氏物語を英語に翻訳したアーサー・ウェイリーは、「もののあわれ」を sympathy, romantic, lively, pity などと訳したらしい。英語単語のバリュエーションの豊富さを見ても、もののあわれのつかみどころのなさを伺いしることができる。
欧米人の場合、個が日本人よりも強い。つまり、主体と客体が分かれているため、主体が感じる美であるのかもしれない。
それに対して、日本人は個が集団の中に埋没しているため、もののあわれにはどこか他律的な部分があるのではないか。
これらのコメントに対し、日本人の場合、主体と客体が分離していない。
日本人のいう「もののあわれ」を考える場合、自然と同化する点が大きいのではないかという意見が出た。
北欧でも、プロテスタントの宗教が入ってくる以前は自然と一体となった文化があったようだ。
また、日本人は「もののあわれ」という曖昧ではっきりしない文化があるが、自分の都合のよい解釈につながることある点を憂慮すべきではないか。
・清盛が悪役として登場するのが印象的だった。
大河ドラマ『平清盛』では、清盛は最初、善人として登場する。どのようにして彼が悪人になったのか、その人格形成が描かれていた。
一方、『平家物語』では、清盛は悪者として登場する。
・琵琶の演奏と共に語られるストーリー
琵琶の演奏と共に語られるストーリーには、言葉の中にリズムがある。口承で伝える物語であるため、読んで伝える文学作品よりも、キャラクター造形が単純化されているのかもしれない(清盛=悪人、重盛=善人など)。
・前書きによると、『平家物語』は多くの人が継ぎ接ぎして作り上げたストーリー。
様々な人々が継ぎ足していくうちに、分厚く長い物語になった。
『平家物語』が完成したのは、1200年以降である。実際の出来事が起きてから100〜200年後に成立した。
『徒然草』によると、信濃前司行長が『平家物語』の作者とされている。
様々な平家に関する言い伝えがあり、それをまとめていったのが、行長なのではないか。
琵琶の演奏と共に口伝で伝えるスタイルなのは、もともとが言い伝えの集合体であったからではないか。
音楽もリズムや大事な作品。
・平家の隆盛と衰退は前代未聞なほどに大きな変化だったのではないか。
武士として殿上人となり、さらに要職の半分以上が平家となった。娘を天皇の中宮にもしている。
さらに、大きな成功をおさめた平家が、急速に没落していく様が描かれている。
このプラスからマイナスへの転落ぶりも凄まじい。
当時は大きな変化の少ない世の中であったろうから、これほどの変化もなかなか見られようもない。
また、これほどの変化があっても、日本は王朝の交代はなく、天皇制は維持されたことも興味深い。
これに対して、天皇は絶対善であり、天皇に悪は存在しないとされる。これが色々と問題を難しくしているように思えるとの意見があった。
また平清盛の隆盛に関しては、平治の乱において、二条天皇と後白河上皇の対立を調停できたのが清盛だけだったのではないか、との意見が出た。
・p107の謀反を起こした成親への死刑を重盛が止めようする場面が印象的
P107の記述によると、平安時代末期の日本では、死刑が実施されるようになったのはつい最近のことらしい。
嵯峨天皇の時代から、約300年間にわたり、死刑は実施されていかったと書かれている
死刑を行えば、国内で謀反が絶えなくなると、清盛の息子の重盛は語っている。現代における死刑廃止論の論拠としても同様のことが言われることがあるようだ。
また、この時代の世界観は仏教的な世界観であり、仏教的な世界観とは因果応報である。
人に危害を加えたから、平家に災いが降りかかると考えて、死刑を止めようとしたのではないか。
この時代は家(いえ)の問題も重大である。家の継続こそが、善であった時代であるから、平重盛は家に将来災いを呼ぶかもしれない死刑を止めようとしたのではないか。
・清盛の嫡男の重盛が善人としてかかれている。
清盛は革命家で因習にとらわれない。
対して、重盛は保守的であった。
実際の史実を鑑みると、清盛と重盛の間に、ここまで対照的な行動様式の差異はなかったと思われる。
・4つの勢力が存在する。
貴族
僧侶
武士
・当時の武士の実態からみれば平家物語全体が実態からはかけ離れたストーリーなのでは?
平家物語では、あるべき武士の行動様式を後世の人がつくり、それに合わせて物語を作ったのではないか?
天皇は自ら直接、公地や荘園の支配をしているわけではない。
院政とは、天皇をやめて、自由人の立場になって、実権を振るうこと。
中国ではありえない。
天皇はたくさんの行事をやっている。
生産活動をしているわけでもないし、イデオロギーの戦いをしているわけでもないので、主な仕事が行事。
形式的な行事をばかりやっているという点では、現代の日本においても、形式的で中身のないことが企業や社会でも行われていると思われる。
日本の形式主義はこの時代でも変わらないとしたら、根が深いのではないかという意見が出た。
それに対して、
毎日、違うことを考え、違うことをやるというのは明治時代以降の人間の行動ではないか。
毎日、同じことをやり続けるというのはある意味ではすごいこと。例えば、毎日、同じことをやり続けた大工さんの匠などは、毎日、違うことをやっていては辿り着けない境地かもしれない。
経済成長的に考えてしまうと、形式的なものに無意味さを感じてしまうのではないだろうか。
連続性(形式的)と変化(成長的)をバランスさせることが大事なのかもしれない。
また、当時は貨幣経済ではなかった。
行事がやたらと多いのは貨幣経済が存在していないからではないだろうか。
沖縄では、色々な儀式が残っており、人生の多くの時間が儀式に使われている。
気候変動で気候条件が変化しているのにも関わらず、旧暦の農業伝統に基づいて農業が行われたりしている。
また、違う観点から考えると、ウィルスに対する理解などもない世界観では、天皇の行事が重要になってくるという意見も出た。
・清盛の死後の評価の好転について
悪人として登場した清盛だが、死後は、その善行が評価される場面も出てくる。
日本人は死者に対して優しいという意見が出た。
死んだら禊も終わる、と言う。
左遷先で亡くなった菅原道真(845-903)の怨霊が、大変恐れられたのもあるかもしれない。
対して、中国は対照的だ。
中国人は死者に厳しい。
墓から引きずりだして、鞭を打ったりする。
ちなみに、革命児の清盛らしく、死に際も普通ではない、非常識的だ。
・文覚について
頼朝へ平家討伐を焚き付け、その正当性も付与した重要人物が文覚だ。
文覚は仏教界の革命児で、システムの外の人間であるのではないか、という意見が出た。
文覚という人が、頼朝が挙兵するための宗教的なバックアップを与えたるために出てきたのでは、という意見に対して、
頼朝の宗教的バックグラウンドは、八幡神、伊豆山権現、箱根権現であり、文覚と頼朝の宗教的親和性は、通説としてあまり聞かない、という見解が出された。